月刊ライフビジョン | 地域を生きる

葬儀社という商売

薗田碩哉

 わが家は商店街の中の仕舞屋(シモタヤ:商売をやめた家)だったことは前に書いたが、筆者が中学生のころ商家に復帰した。しかし、始めたのはもとの菓子屋ならぬ葬儀社だった。そのころ父がある事情で休職していたので、家計を補うために店をやろうということになったのだが、ただのサラリーマンがすぐにできる商売というのは滅多にない。たまたま父の叔父が郊外の中山で葬儀社を営んでいたので、その支店という名目で店を開いたのである。名付けて「中山博善社」(因みに白洋舎と言えばクリーニング、博善社と言えば葬儀屋と相場が決まっている)。

 葬儀屋という商売はちょっと変わっている。看板は目立ってもお店の中は薄暗く、めったに客はなくひっそりしている。商店街にあっても大売出しなどには参加しない(葬儀屋が福引を配ったり、チンドン屋を頼んだりはできない)。わが博善社も当初は全く仕事がなかったのだが、しかし、表通りにあって目にはつくので、存在が知られるようになり、ぽつりぽつりと葬儀の依頼が来るようになった。

 そのころの葬儀は自分の家でやるのが通例で、葬儀屋の仕事は亡くなられた方のお宅に出向いて、その家にふさわしい祭壇をしつらえ、ご遺体を棺に納め、通夜と告別式の手はずを整えることだった。これがなかなか多岐にわたり、市役所へ行って埋葬許可証をもらい、火葬場に予約を入れ、お坊さん(場合によっては神職や牧師さん)を依頼し、故人の写真を探して引き延ばし、挨拶状を印刷し、生花や花輪や香典返しや弔問客用の料理を注文し、バスやタクシーを手配しなくてはならない。これらはそれぞれの業者とのネットワークが出来ていて、てきぱきと電話を掛けて事を進めていくイベント事業なのである。

 菓子屋の一人娘だった母は、葬儀屋には抵抗があるようだったが、背に腹は代えられない。それに父も母もやむなく始めたこの仕事がだんだん面白くなってきたようだった。父は公社勤めのサラリーマンで、一応は大学出の教養人だから、遺族への対応も丁寧で、式の時には黒ネクタイの黒服で厳かに進行していた。当時の葬儀屋さんは印半纏に草履履きの職人スタイルが普通だったから、父のやり方は新鮮に見えたことだろう。父はやがて復職して公社に戻ってしまうが、母は葬儀社業が板について、年配のおじいさんを助手にして、生き生きと葬儀ビジネスに打ち込んでいたのを思い出す。

 10年ほど前に映画『おくりびと』がヒットして「納棺師」なる仕事が注目されるようになった。あの映画を見たときは、かつての「家業」を思い出してまことに懐かしく感じた。とは言え現在は、葬儀を自宅でやることは少なくなり、どの街にも大小さまざまな斎場が誕生してどこも忙しそうである。手順もきちんと出来上がっていて、弔問者は礼服に身を包んだ今風葬儀社のスタッフに導かれて、粛々と記帳し焼香し、香典返しを受け取って帰っていく。そんな葬儀に参列していつも思うのは、その場には故人の生きた印が何もないことである。

 かつての自宅葬はまた「地域葬」でもあって、故人の生きた地域社会がそのまま葬儀の舞台であった。悲しみにくれる家族に代わって、隣り近所の人たちが場所の設営から料理づくり、通夜の弔問客の世話から翌日の告別式、野辺送りに至るまで何くれと手伝ったものである。弔問者は彼や彼女の生きた家と地域の雰囲気を感じながら、彼の生きざまに思いを致すことができた。どこへ行っても同じような仕様の現在の斎場に行くと、地域の後退は生きる世界から死の世界にまで及んできたことを感ぜざるを得ない。         【地域を生きる43】


薗田碩哉(そのだ せきや) 1943年、みなと横浜生まれ。日本レクリエーション協会で30年活動した後、女子短大で16年、余暇と遊びを教えていた。東京都町田市の里山で自然型幼児園を30年経営、現在は地域のNPOで遊びのまちづくりを推進中。NPOさんさんくらぶ理事長。