月刊ライフビジョン | 論 壇

パワハラが示す日本企業の低質化

奥井禮喜

パワハラ防止策法案?

 厚労省が、パワハラ防止策づくりを企業に義務付ける法律整備の検討に入る。年末に具体策をつくるという。

 内容は、社内相談窓口をつくるとか、再発防止策(パワハラをやった人の処分含む)を講ずるなどで、罰則は設けないが、悪質な企業は公表するというようなものらしい。

 パワハラについて、当局が掌握している苦情は2017年度に7.2万件。2016年度のある調査では3人に1人がパワハラをうけた体験があるという。社会問題化しているのは疑いない。

 2011年7月、厚労省に「職場のいじめ・嫌がらせ問題に関する円卓会議」が設置され、2012年3月、「職場のパワー・ハラスメントの予防・解決に向けた提言」がまとめられた。そこでの行為類型(すべてではないが)は、

 ① 暴行・傷害(身体的攻撃)。

 ② 脅迫・名誉棄損・侮辱・ひどい暴言(精神的攻撃)。

 ③ 隔離・仲間外し・無視(人間関係切り離し)。

 ④ 業務上明らかに不要なことや遂行不可能なことの強制、仕事の妨害(過大な要求)。

 ⑤ 業務上の合理性なく、能力や経験とかけ離れた程度の低い仕事を命じることや仕事を与えないこと(過少な要求)。

 ⑥ 私的なことに過度に立ち入ること(個の侵害)。

会社はサディズムの世界か?

 パワー・ハラスメントは和製英語である。職場で上司が、地位や権威を悪用して部下をいじめるような場合だ。多くは、言葉による精神的暴力で人格が傷つけられる。当事者だけの問題ではない。パワハラが発生する職場の雰囲気とはいかなるものだろうか。人々は心穏やかに働けるだろうか。

 加害者側の心理としては被害者に対する差別意識、敵意、嫌悪感などがあると思われる。それにしても、上司Aと部下Bとの個人的関係において、徹底執拗なパワハラが発生するだろうか。人間同士であるから、誰でも、なんとなく「あいつは虫が好かん」という相性の悪さがあるのは否定できないが、「オレの目の前から消えてしまえ」というほどに憎しみが高まるのは異常である。

 とすれば単に個人的感情のみならず、憎しみ感情を増幅させる状況的原因があると考えねばならない。たとえば、Aが上司から営業成績を向上させるようにつねづね厳しく叱責されているが、思うように成績が改善しない。そこでAは部下に八つ当たりする。いちばん八つ当たりしやすいのがBだというわけだ。

 逆に考えてみよう。Aの管轄部門は、つねづね上司の覚えがめでたい。上司が会議などで「Aくんはよくやってくれている」などと称賛するようであれば、Aが部下に罵詈雑言を飛ばすようなことにはならないであろう。

マネジメントありや?

 筆者が職場にいた1960年代は、「(先輩から)仕事を盗め」という言葉と並んで「大きな顔をする部下を育てよ」という管理者向けの言葉があった。これは、部下がいちいち上司にお伺いを立てず、自己責任でじゃんじゃん仕事に挑戦する気風をつくろうというにある。

 有能な係長がいた。まさに「大きな顔をする」部下を実践していた。某日、部の会議から帰った課長に呼ばれた。課長「あの仕事ですがね、あなたがよくやっていると部長がほめていましたよ」。係長は内心、課長もほめてくれると思った。課長「しかしねえ、あの仕事についてわたしは十分に知りませんでしたからね。もう少しで恥をかくところでしたよ」

 言葉は柔らかかったが、「お前、自分のやっていることをちゃんと報告せにゃいかんぞ」と不満をぶつけられたのである。係長は、「は、どうも」とかなんとかその場をつくろって退出した。

 「ほうれんそう(報告・連絡・相談)が会社を強くする」というような幼稚な言葉が流行するのは1980年代である。こんなのは、丁稚向けの言葉であって、番頭さん級ともなれば、いちいち上司にお伺いを立てるべきか、自己裁量でやるべきかは、自分がきちんと決断する。

 そもそも、部下がやっていることを重箱の隅でもつつくように上司が知っていられるか。そんなことをやれば、監督は行き届くとしても、上司自身の仕事力は一切発揮されないことになる。

 ある中堅スーパーで、店長を集めては売上不振の文句を言う社長が、いつも店頭へ出て販売員の仕事をする。店長以下は萎縮どころか呆れている。商品陳列がお粗末で売れない、販売員の態度が悪くて売れないのではない。いや、仮にそうであればそれを改善する方策を打ち出すのが社長の仕事だ。

 上記は一例であるが、上位者が下を見て仕事をするから、販売不振となれば部下のケツを叩くしか能がない。誰もが上を見て、もっとなんとかできないか、と考えるから会社は発展する。パワハラのような、上による下イジメが発生するのは、第一に上が上たる仕事をしていない事情の延長線上にある。

旧軍隊に似ている

 コストカットは、会社にとっては確かに大事である。しかし、コストカットをいくらやっても、投資しなければ売り上げは上がらない。利潤優先だけを追求する企業体質が、上から下への無理難題を押し付ける体質と等しい。

 パワハラは八つ当たりの典型である。八つ当たりが問題になるような企業組織は病気である。病気を押して無理な活動をすれば、なおさら企業体質を弱体化するだけである。

 パワハラに限らず、職制上の上位者が下位者に絶対的権限を揮うのは、まさに敗戦までの旧日本軍と同じだ。軍隊内では上官による部下に対する暴力行為が当たり前であった。上を恐れて行動する兵士の士気が上がるわけがない。敵と戦う前に、軍隊内部においては面従腹背、人心離反が著しかった。いま、職場のパワハラは、それと極めてよく似ている。

 軍隊体験者は共通して「要領のいい奴が生き残る」と語った。「敵は前だけではなく背後にいる」次第だ。要領のいい奴というのは、自分さえよければよろしいという処世術を実践する人である。だから、軍隊では上官には這いつくばるほどに追従し、徹底的にゴマをすった。

 戦争など知らない世代の世界で、かつての軍隊と似たような気風が蔓延しているとすれば、まことに気色の悪い話である。

 他者を抑圧する精神状態は、他者に対する軽蔑であって、「人間の尊厳」を知る者の精神ではない。加害者はイジメて、相手が委縮すると、愉しみが湧く。サディズム(嗜虐的傾向)的心理である。イジメが何度も続く理由である。

職場が荒れている

 仮に被害者が裁判に訴えたとすれば、適正な業務範囲についてなされたことか否かの確定が争点になりやすい。

 しかし、いちいち実際の言動・行動が記録されていないから、事実を再現できない。当事者それぞれの主観について争われることになる。

 第三者によって、否定できない明確な証言があればよろしいが、まずそれは期待できない。なぜなら、公平な第三者が存在するような事情にあれば、裁判沙汰になるようなハラスメントが発生するわけがないからだ。

 つまり、ハラスメントが発生するような職場は荒れている。

 これらは、職場の人事管理における病理的症状である。原因は人事管理の根幹にあることに気づかねばならない。人事管理がわかっていない。

 職場が荒れていることに慣れてしまってはまずい。産業や経済の発展のみならず、健全な社会のためには健全な職場=働き方を復興させなければならない。

日本全国ブラック企業?

 ろくでもない「ブラック企業」が流行語大賞になったのは2013年である。起源を辿れば、1990年代後半あたりであろう。

 ブラック企業は、とくに新興産業、サービス産業に多く目立つ。製造業などと比較すると人を育てる必要性や苦心が薄い業界だといえなくもない。人の定着性(知識・技術・技能)を必要とする仕事であれば、人を消耗品のごとくに軽々しく扱えないものだ。

 いわゆる終身雇用(制度)が、熟練工を必要とする事情から広がったことを思い出そう。経営者が、わが社は「人を大事にする」と語る。これ、人道主義のありがたい言葉ではない。企業がその目的を遂行するために人の能力が絶対的不可欠だから、必然的に人を大事にするのである。

 ブラック企業では、極論すれば、経営者は儲かるから経営するのであって、他にもっと儲かる手段があれば直ちに乗り換えるであろう。一方、労働者の大部分は働く必要があり、不都合なら直ちに乗り換えるという条件があまりないから、不満があっても働き続けなければならない。

 ブラック企業は、従業員の採用から解雇まで、さまざまな分野で問題を指摘される。――雇用契約がきちんとなされていない。求人広告・採用の際の労働条件と実際の労働条件が著しく異なる。試用期間が長い。セクシャル・ハラスメント、パワー・ハラスメント、職場でのいじめ、労働者がさまざまの名目で企業の経費を負担させられる、賃金をきちんと支払わない、長時間労働、不払い労働は当たり前。辞めたくてもさまざまな方便で辞めさせない、かと思えば難癖つけて解雇したりする。—-要するに労使対等意識がない。

働く人の見識が第一

 「ドアホ、危ないやないか。なにしとんねん!」と怒声が飛ぶ。昔の現場では、まあ、よくある光景であった。新米が危険な作業をした場合である。「ばかったれ、こんなことも知らんのか!」というのもある。これらは決してパワハラではないが、状況抜きに言葉だけ見るとパワハラである。

 企業が立派な「パワハラ防止策」を制定すれば、「あなた、そんなことをすると危険ですよ」とか、「これもご存知ありませんか」というタッチになろう。まどろっこしいことおびただしい。

 ところで、防止策のルールや、マニュアルを作成すればパワハラがなくなるであろうか? 思うに、ことは社会的常識の問題である。常識を破る連中に常識を制度化しても問題は解決しない。こんな次元にまで、法律で規定してやらせるのは、まさに、日本社会が病気に罹っているとしか表現できない。

 理性というものは、人間同士の自由な共同生活をするためにこそある。イジメを見て、イジメだと理解できないような人が社会の多数派だとは思いにくい。

 経営とは、いろいろさまざまな人々の能力を組み合わせて目的を遂行することである。上意下達にサディズムが忍び込むとすれば、すでに真っ当なマネジメントではない。こんなことは誰でもわかっているはずである。

 職場で自由闊達にものが言えないとすれば、すでに病気に罹っている。なんとなれば、組織があるからコミュニケーションが必要なのではなく、コミュニケーションするから組織ができたのである。

 職場で自由にものが言えないのであれば、ものを言うように直さねばならない。「ものを言いましょう」と制度化するなんてことはド外れた考え方である。

 コミュニケーションが成立しないのであれば、組織が崩壊しつつある。パワハラ防止策をつくるのは構わないが、もし、いまの組織事情を本気で考えないのであれば、またぞろ役に立たないことに精力を注入するだけだ。

 コンプライアンスにしても、鳴り物入りで騒動した成果が出ていない。本質を無視した対策は、単なる厚化粧である。

 筆者のボスは「機能の優れた機械の外見は美しい」と語った。これ、非常な名言である。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人