月刊ライフビジョン | 家元登場

キサス キサス Quizas

奥井禮喜

侮れない風景

 今日の世間では、理屈抜きに子供っぽい光景がそこかしこに見られる。町を歩くと、漫画から飛び出してきたようなファッションにしばしばお目にかかる。何ごとも自己表現である。ご本人がそれをもって気分よく自己表現なさるのだから、いちいち不快顔してはいけない。年寄りの冷水、嫌味だと批判されたくはない。AとBが連れだって歩いている。Aが「何だ、あれは」と批評を開始する。当然、話しかけているのだから、Bは聞こえないふりができない。もちろん、Aの価値観からすれば至極当然の見解である。Bもかなり共感するのだけれど、全面的に共感するわけにはいかない。何となれば、それは批評対象の「人権」を否定することにも通ずるからである。そんな余計な考えをしているものだから、Bは、ついまごまごして相手からすれば的確な返事ができない。結果的に2人が気まずい思いを抱えてしまう。せっかくの散歩が台無しだ。漫画の力は侮れない。

盛夏妄想

 日常的にどんな会話をするか。とりとめない会話をするという。ただし、こいつが実はかなりの厄介である。「あんな恰好して、襲ってくれというようなものじゃないか」。なるほどその観察には一理あるとする。しかし、これを単純に了解すると、襲われるのは挑発したからであって、挑発しなければ襲われないのだから、襲われるようにしたCが悪くて、挑発されて襲ったDは悪くはないという理屈になる。一方、Cは挑発するなんて気持ちはさらさらなく、自分がしたい恰好をして、自分を表現しただけである。挑発したいのではないのに、Dが「挑発しているのやろ」と勝手に思い込むのであって、「挑発」云々はCにしてみれば言いがかり以外のなにごとでもない。この手の言いがかりの歴史は古い。大昔は二の腕を出しているだけで挑発(的)であった。中昔は腕の付け根がそれであった。想像力は偉大であり厄介でもある。挑発の基準は、想像力と思い込みによる勘違いである。

視激的連想

 しかし、前述のような理屈を歩きながら話すのは容易ではない。自戦車がどこからともなく走り抜けていく。で、今度は自戦車の走行マナーの悪さが話題になる。こちらは、歩道は歩行者優先のルールがあり、明らかにルール違反をやらかしているのだから、ご両人の見解一致は比較的容易である。走り去る後姿を眺めながら、血相変えて走らねばならない気の毒な理由があるかもしれないという惻隠の情が湧かないのは遺憾である。自戦車に乗る人と歩く人の敵対的不愉快感はどうしても蓄積していく。犬をベビーカーに乗せて散歩している人を見て驚く。それが老犬で、飼い主の面倒見のよさだとわかると、なるほどと感心するが、ついつい人間社会を考えて憮然たる思いになるのも仕方がない。夜分遅くに1人で走っている人を見ると、またまた心配心が起こる。何時に寝て何時に起きるのか。本当に健康的生活なのかと、また余計な考えが頭を横切る。

考える習慣

 逍遥という言葉がある。格別の目的地があるのではなく、ぶらぶら歩く。転じて、心は俗世間を離れて気ままに遊ばせる。悠々自適で楽しむという。たかが散歩であるが理屈をつければこうなる。古代ギリシャのソクラテス(前470~前399)は、「歩く良心」と呼ばれた。ものごとを本当に知っているか。知らないことを知らないという態度が大切だ。知恵者らしきのがいれば訪ねて質問し対話する。知らないことを知っているフリする人が多いことを知る。あるいは、あるテーマを巡ってそぞろ歩きしつつ話し合う。どこかの人のように「結論を言え」と急ぐのではなく、少しずつ足元を固めて前進する。のんびりしているようだが実は頭は問題解明に向けて全開させねばならない。それでこそ、知恵を絞るといえる。ソクラテスは、手がかりが浮かんで三日三晩立ち止まって考えたという挿話も残る。考えることを習慣にせねばならない。暑さボケの悪い頭で今日も考える。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人