NO.1679
わたしが初めて広島を訪れたのは、小学1年だったと思う。両親が小さな運送業を営んでいたが、広島の割烹旅館へ氷詰めした鮎を届けることになり、広島で1日休みをとってゆっくりするので、わたしも連れていくことになった。
父親は徴兵で呉にいたことがあり、母親は娘時代に広島市内の歯科医で働いたことがある。道路はでこぼこで身体がしばしば浮き上がったが、4、5時間のトラックの長い旅に気持ちが弾んだ。
翌日は母親が市内見物に連れて行ってくれた。敗戦後数年である、市内は被爆された方がたくさんおられ、しばしば母親の手を強く握った。映画『原爆の子』を見た。内容などまったくわからない。映画も暗い気持だけ記憶にある。その後は高校時代、就職試験で広島へ行ったが、大都会の姿に昔の面影を感じなかった。
1976年に、森滝市郎先生(1901~1994)をお訪ねして反核のお話を聞いた。これは当時担当していた組合機関雑誌で平和特集をするためである。森滝先生は原水爆禁止運動のリーダーで、訪問前には闘士のイメージを抱いていたが、2時間のインタビューでは、実に穏やかなお話しぶりであった。
先生は、「慈の文化」を主張された。他者に対する哀れみ、同情、共感の大切さを説かれた。人間同士の敵対意識をなくさないことには戦争はなくならない。反核思想が哲学であることがよく理解できた。先生も被爆されて、原爆投下に対する怒りは並々ならぬはずだが、誰かを批判するような言葉は一つも聞かなかった。まさに慈の文化の実践者である。原水禁運動の礎を築かれた。広島といえば必ず森滝先生が最初に頭に浮かぶ。
広島の思い出は格別のこともないのだが、最初の訪問が忘れられず、原爆を投下されるような悲惨を生み出した戦争に対する憎しみから、時間を重ねるごとに反戦・反核の気持ちが強くなった。もし、日本が大国・拡張主義にのぼせ上がって15年戦争を推進しなければ内外の戦争被害者を作り出すことはなかった。
だから、敗戦後は全体主義に訣別して戦争の反省に立った主権在民の民主主義と平和主義の二本柱で再出発したはずだった。政府与党が突き進んでいる数々の政策からは、敗戦当時の反省がすっぽり欠落している。国民に対する統制を強化することにしか関心がない。民主主義と平和主義を否定することしかない。政治家は戦争を知らない世代だというが、なんら論理的正当性を持たない。
力による安全保障は所詮強盗の論理と同じである。力の論理による秩序維持はよくいえば群雄割拠になるが、本質はアウトロー世界の力関係とまったく変わらない。強いものが支配するアウトロー社会は必ず乱れる。平和秩序を破壊しながら平和を唱えるのは噴飯ものである。
政府は国際会議では法と秩序論を展開することが少なくないが、自分自身が強盗の論理に立つのだから説得力がない。無法者が立派なことを語っても他者を説得できるわけがない。いま強盗の論理に立っているという恥ずべき事実を逃避せずしっかり直視せねばならない。論理矛盾を平然と唱える輩は。政治家になるべきでない。
平和戦略を構築しなければいけない。なによりも敗戦直後の民主主義・平和主義へ立ち戻りたい。混乱・混迷した時は原点に戻るのが常道である。当時は主権在民の民主主義が思想的にももっとも大きい衝撃を与えた。平和主義に疑念を持つ人はきわめて少なかった。戦争しない国をおおいに歓迎したのである。
ところが非核三原則を見直す声まである。恥を知らない政治家はとどまるところがない。結局、15年戦争の時代の論調に戻っている。歴史の教訓を大切にしない国家・国民は尊敬どころか嘲笑されるのがオチである。歴史を学び直さねば活路はない。
