筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)
スマホ社会の問題
前回、スマホ社会がはらむ問題を論じた。その問題とは、まず、資本主義が、スマホ利用を通じて収集した、私たちの公共財ともいうべき情報を、利潤創出の源泉にするも、その対価は、私たちに還元されず、収奪されたままであるというものだ。それどころか、人びとは、このことにはまったく無自覚に、かつ、依存的に、寸暇を惜しんでスマホに入れ込んでしまっている。
その動機とは、資本主義経済社会が、そもそも自己認知しがたい人間に、さらに、孤立や不安、日常の無意味さをもたらし、人びとの、この逃れ難い苦しみや不安に立ち向かうことからの逃避にあるのだ。
人びとは、スマホが次々ともたらす自分好みの情報に、驚きや喜びを感じ、そして興奮し、その苦しみや不安が、間断なく打ち消されていくがゆえに、依存してしまう。
「自由からの逃走」
この論考を読んでいただいた奥井禮喜先生から、そこには、人びとの薄弱な自我の問題があるとの示唆をいだいた。そして、エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」(*1)の話題となった。そんなことから、この著作を手に取った。
中世から近代、資本主義経済社会は、人間を、自然という制約条件から、また共同体の束縛から自由にした。加えて、人びとは、数多の闘争により、支配されることからの自由を拡大し、人間が人間として生きるという、本来目的の実現可能性を高めていった。いわゆる、「・・からの自由」である。
しかし、同時に、資本主義経済社会の進展は、人間が、人間として生きるという本来の目的を、経済という手段を目的として生きるというかたちへと、転倒させていく。それが、自己認知しがたいという、人間本来の精神構造の問題に、おおいに拍車をかけた。
フロムは、この事態にあって、人びとが、「・・からの自由」の先に、「・・への自由」に向けて立ち向かうことの、孤独や不安に耐えかね、自我を消滅し得る、または、自我を超越し得る何ものかへの依存を選択するという、「自由からの逃走」に至るという、問題提起をした。
加えて、自らの欲求充足に依存する人間が、この人びとの依存を利用し、ファシズムや全体主義という、多くの人びとの自我を消滅させる、忌まわしい社会を生み出すのだと。
フロムが見た労働組合
私が刮目したのは、フロムの、労働組合についての言及である。(以下、引用)
「人間は、自分の人生の真の目的ではない目的のために働くことを、目的として資本主義経済機構の歯車となった。そのことは、同時に、個人の無意味さと無力さの感情を与えることになった。」「近代が生み出した労働組合の真の存在意義と価値とは、この人びとが苛まれた無意味さと無力さの感情を払拭し、労働者に生きる居場所を与え、生きる意味を見出す力を与えようとしたところにある。」
これは、「労働組合とは何か?」という問いに対する答えであり、労働組合とその運動の本質を、明晰に語ったものである。そこには、人間という存在の本質、そして、資本主義経済社会の人間に対する問題の本質、また、中世から近現代への変化を歴史的に俯瞰しつつ、人間いかに生きるべきか、また、どう生きることが、人間にとっての幸せなのかという哲学があると、私は感受した。
しかし、日本の労働組合とその運動には、フロムが見た労働組合の姿はない。ナショナルセンターは、社会政策次元のビジョンしか語らず、単位労働組合にいたっては、経済的な労働条件の調整機関(第二人事部との本質的な酷評もあった)ないし、サービス提供機関化してしまっている。労働組合に関わる人びとは、その存在意義と価値を、ほぼ自覚できないでいる。
いまこその労働組合
日本の労働組合とその運動の牽引者たちは、何故に、この労働組合の真の存在意義と価値を、そして、今日に極まるその重要さを、語らないのだろうか。それは、官僚化した巨大機構のポジション取りを、または、ビジネスキャリアの一貫としてか、そこには、生きる術を目的化するという転倒性があるのではないか。人間いかに生きるべきかという、あるべき目的であるならば、限りある人生時間は、より、そのための真理の追求に費やされるはずだからだ。
近現代、人びとは、経済的豊かさに依存し、それが目的だとして、疑わずに生きるようになった。資本主義は、ある意味、資本蓄積を抜本的に阻害するのでなければ、その範囲で人間が自由に生きることを許容してきた。人びとは、経済発展とともに、量的自由を謳歌したのかもしれない。
しかし、資本主義が、利潤率の低下に見舞われるや、反攻に転じ、人びとの自由を駆逐しつつ、利潤蓄積の手段としてしまう時代となった。だから、フロムが労働組合とその運動に見た、存在意義と価値とは、あらためて重要な意味を持つことになったのだ。本当は、いまこその労働組合なのだ。
「・・への自由」自我の確立
ものごとの本質を希求し、それを自らの行動としようという動機の源泉は、自分自身が、自分に正直でいたいと思うところにあると、私はいつも考える。人間は、唯一無二の存在としてこの世に生まれ、自分を生きようとして、環境に働きかけ、その反作用を感受し、自己認知を深め、自我を塑像していく。そして、自我が、かけがえのないものだからこそ、人間は、いかに生きるべきかの本質に向かうことを求め、止まないのではないのだろうか。
ゆえに、見舞われる事象、取り巻く言質、当たり前でしかないと思われる所与のことに対し、自分自身には、「本当にそうか?」という、懐疑が、おのずと湧き上がる。この自らの懐疑に呼応するのが、人類が積み重ねてきた知性であり、連帯する人びとであろう。
このようにして、自我を塑像することを、最大限に可能とすることが、フロムの言う、人間が求めるべき、「・・への自由」ではないのだろうかと考えた。
フロムは、言う。「われわれは、みずからの自我を実現させ、この自我と人生を信ずることができるような、新しい自由を獲得しなければならない。」と。
