週刊RO通信

敗戦直後の憲法論議から

NO.1676

 空襲警報が響かないことが、ようやく日常的になった1945年10月、学者有志の間で憲法改正論議が始まった。ポツダム宣言受諾によって、国家政治の性格、政治体制が一変したのだから、憲法改正は必至だという考え方である。

 一方、憲法学の権威・美濃部達吉(1873~1948)は、改憲不要論を唱えた。「戦争中の政治の欠陥は、軍閥内閣の成立、議会の機能喪失、言論・集会・結社・学問・信教などの自由の圧迫、偏狭かつ神秘的な国家観念の強要などが問題であって、大日本帝国憲法とは関係がない。それよりも、国民の衣食住問題こそが急を要する。それを差し置いて直ちに憲法改正に着手するのは、本末転倒である」と断じた。

 実際、人々は暮らしを支えるのに精いっぱい。まさに「憲法よりメシ」の切羽詰まった心境であった。ところで、「メシ」が切実でなければ人々は政治や憲法に関心を強めただろうか。戦後のいつの時代でも、「メシ」が世論を動かしてきたのではなかろうか。労働組合も依然として飢餓賃金モデルの活動にこだわっている。

 11月5日、高野岩三郎、杉村孝次郎、森戸辰男、室伏高信、岩淵辰雄、鈴木安蔵(事務局)が憲法研究会を開始した。憲法研究会は、8月15日で古いものは滅びた。大日本帝国憲法の改正ではなく、新憲制定の途を進んだ。とくに共和制について、「日本が共和制たることが望ましい。しかし、現在は過渡的段階であり、しばらく民主主義的性格の強い、立憲君主制たるを妥当と考える」とした。

 高野岩三郎(1871~1949)は、明確に共和制を志向し、私案を作成した。高野は鈴木に、「今のうちに共和制にしておかないと、そのうちまた楠正成のような人物が登場して、(戦前)天皇制に戻すかもしれない」と漏らしたという。高野の問題意識は、天皇の名による数多の犠牲の強要、圧政にもかかわらず、国民が主体的に天皇制を廃止することが困難とみて、GHQの民主化政策のなかで一挙に進めるしかないと考えたのであろう。

 憲法研究会による憲法草案要綱は、12月27日に公表された。「日本国の統治権は日本国民より発す」として、主権在民を明確に打ち出した。この案は、首相およびGHQに提出された。1946年1月以降、各政党も含め憲法論議が活発化したが、もっとも民主的なものが憲法研究会の憲法草案要綱であり、GHQ民生局がもっとも注目するところとなった。

 高野岩三郎の兄は房太郎、1897年に労働組合期成会を結成して、日本の労働組合運動に先鞭をつけた。岩三郎は学者の道へ進んだが、兄の活動を注視して自分も労働問題に強い関心をよせた。働く人の生活や意識が向上しなければ世の中はよくならない。働く人が民主主義、主権在民の担い手だが、国が民主制に代わっても、政治を変革していくことは容易でない。それを熟慮していただろう。

 美濃部は、「法律上は民主主義と君主制は両立しないが、政治上は成立する」という、柔軟な考え方をしていた。日本国憲法の象徴天皇制は、結果的にいえば、美濃部の考え方と同じである。

 民主主義は主権在民である。帝国憲法の天皇制は天皇主権であったから、まさに180度の転換である。象徴とはいえ天皇制と民主主義の対立する関係を円滑に、主権在民による天皇制を維持するためには、なによりも主権者が主権在民の実を上げねばならない。

 高市内閣と自民・維新は、帝国憲法下の皇室典範の思想をそのまま押し出し、国民の総意など歯牙にもかけず乱暴狼藉の国会運営をおこなっている。それは象徴天皇制を破壊する行為である。天皇を尊崇するポーズの裏には、人々を統治するために、天皇を祀り上げて、その威光を使って好き放題した権力者群像が彷彿する。高野岩三郎の卓見を、いまこそ注目するべきである。