NO.1675
明治時代はじめは新時代への期待から自由闊達な意見が展開されていた。福沢諭吉は、「御一新とは何事なるや。幕府屋の看板を卸して天朝屋の暖簾をかけ、今の参議を昔の閣老に比べれば、毛が三本多いくらいの相違にて、徳川専制が終わったものの、実態は薩長藩閥の政治に代わっただけで庶民の意識は封建時代と変わっていない」(要旨)と痛烈に批判した。
廃藩置県後の官制は、薩長土肥の出身者が参議、各省卿の大部分を独占したが、とくに薩長の勢力が圧した。西南戦争で西郷隆盛が倒れ、大久保利通が暗殺されると薩摩の勢いがおちて伊藤博文、山県有朋らの長州藩閥の独占状態となり、明治大正と期まで続いた。
新政府を打ち立てたが、いかにして統治するかが深刻な問題である。もともとカネも力もない下級武士層が権力を掌握したのだから容易に支配体制が固まらない。事実、1877年の西南戦争が片付くまでは、廃刀令や秩禄処分に不満をもつ不平士族を中心に反乱が多発した。それ以後も、支配層の最大関心が国内をいかに統治するかにあっただろうことは十分想像できる。
公家出身の岩倉具視は、「身に寸兵尺鉄(わずかの武器)を帯びざる人民をして戦慄せしむる」と主張するような軍隊・警察による国家統制論をぶっている。前述の「天朝屋の暖簾」というような自由な論調と比べると、正反対の強硬な統制論者にみえる。
ところで大久保利通は(1830~1878)は次のような考えをもっていた。「世の政体論には、君主政治と民主政治があるが、民主はまだ取るべきでない。君主もまだ捨てるべきでない。いまは君主専制だが、時世は開化の半ばにあり、人々は進取の気性に富む。将来も君主制を固守するべきではない」。大久保は民主制を展望していたと思われるが、暗殺され、民主の芽も摘まれてしまった。
日清戦争(1894~1895)は、国民には戦後までほとんどわからない内容だった。勝海舟は「無名の師」と批判した。明治天皇は開戦には批判的消極的であったが、政府は開戦するや天皇を全面に押し立て世論形成を図った。これが成功した。天皇制イデオロギー(政治による天皇の利用)が打ち立てられた。福沢諭吉は、清(中国)や朝鮮に対しては、西洋列強がやるようにやれと煽った。
昭和に入って満州事変(1931)、日中戦争(1937)から太平洋戦争へ向かうと、天皇制イデオロギーは異常な様相を呈する。文部省刊『臣民の道』(1941)は、「皇国臣民は国体に徹することが第一の条件である。我等は私生活の間にも天皇に帰一し、国家に奉仕するの念を忘れてはならぬ」。この言葉だけではなかった。
宮城遥拝、小学校は少国民の錬成道場と化し、神がかりの皇国史観が叩き込まれる。行先は、絶対的服従の強制、個人の尊厳を抹殺し、天皇のために喜んで死ぬことが最高の名誉とされた。天皇(制)の疑問を発しようものなら張り倒されるのがオチである。
明治のはじめの新しい政治への期待は、時代が進むにしがって潰えた。昭和の戦争の時代へ入ると、天皇の政治的利用は極度に深まり、天皇制は日本的軍国主義、全体主義の権化と化した。政界や軍部など支配層が挙って天皇を崇め奉る。実は、その威光を笠に着てわが身の栄達、国民に対する支配を強化した。その顛末は、八紘一宇どころか、日本が壊滅する寸前までいった。
敗戦後は、無謀な戦争を心から反省し、平和主義と民主主義を掲げて、新生日本が再出発した。戦後の象徴天皇制は、出直し日本の、平和と民主の象徴でもある。いま、自民党が皇室典範を恣意的解釈して改正を目論んでいるのは、自民党が主権在民を破壊する暴挙である。自民党が民主主義の政党ではないことの証明だ。戦後生まれで戦争を学ばない輩に政治家の資格はない。こんな政治家を増産した苦い事実から目を背けては主権在民ではなかろう。
