筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)
「ながらスマホ」の恐怖
最近、私は膝を痛めて、急な動きができない。何かを避けようとして、急に動けば、さらに、膝を痛めてしまうからだ。だから、通勤途上、何が怖いかと言えば、スマートフォン(以下、スマホ)を見ながら歩く輩だ。歩きながら、スマホを見て、前から来る私に気づいていない。相当に近づいてから、「見えてますよ…」風に、顔をあげて、少し進路を譲る。
混雑する駅のホームで、エスカレーターを駆け降りたり登ったりしながら、階段でも、電車の乗り降りでも、歩き「ながらスマホ」が、本当に多い。
周りの事情を認識しようとしなければ、人を巻き込んで事故になるリスクが高まることになるのに、その意識は、ほぼ感じられない。加えて、最近は、イヤホンを装着して、音を聴きながらの、「ながらスマホ」の輩が増えた。周囲の音を遮断すれば、さらにリスクが高まるだろうに。彼ら、彼女らは、お構い無しに、そうやって自分の世界に籠るのだ。
電車に乗れば、座席が7つ、座っている7人のうち、かなりの確率で4〜5人以上は、スマホを見ている。立っていても、周りは同じ状況なのだ。調べてみると、日本のスマホの普及率は、ほぼ100%に近いのだそうだ。いったいなぜ、私たちの日常に、あたかも中毒症状を思わせるように、スマホが利用される事態になってしまったのだろうか。
なぜ、スマホをそんなに見るのか
なぜ、多くの人が、スマホを持ち、また、夢中になって画面から目を離そうとしないのだろうか。考えるに、スマホとは、人びとの欲望への平易なアクセスを可能にするからではないのだろうか。
スマホは、インターネットに接続可能な情報端末だ。求めれば、様々なサービスやコンテンツへのアクセスを可能にする。また、人それぞれの嗜好性から、情報やコンテンツを選択すると、アルゴリズムというプログラムは、その分野の情報を、次々と提供してくれる。ゆえに、人びとは、ついついのめり込み、周りの状況から、自分を遮断してしまうのだ。
その欲望の源泉とは、すべてを言い切ることはできないが、総じてそれは、「手慰み」という気晴らしではないだろうか。そしてまた、その「手慰み」を求める動機の所在は、人間が、現代におけるブルシットジョブ(社会的価値を説明できない、組織構造上せざるを得ずに維持される無意味ない仕事)含め、意義や意味を感じる時間や機会に、大いに恵まれないことの代償行為のように、私は思えてならない。
人びとは、日常の暮らしに、生きることの意義や意味を感じることに恵まれない、言い換えると自分という実存を感じることができづらい、やるせなさや苦しみ、ときには不安に苛まれている。そのやるせなさ、苦しみや不安は、スマホが繰り出す自分好みの情報がもたらす、驚きや喜びや、興奮で、間断なく打ち消されていく。だから、人びとは、スマホを止められない。
スマホがもたらす社会の問題
別に、個人個人の嗜好に口を出さずとも、という意見もあるだろう。しかし、何気なく、電車で、道端でと、頻繁に、時には長く、スマホを見つめ、操作したことの結果、人間社会は、同時に大きな問題を孕んでいる。
一つは、私たちが、監視資本主義(*1)による搾取に見舞われているということだ。資本主義市場経済の進展は、財・サービスの需要の飽和、労働需給の逼迫などから、収益性の低下という危機を迎える。この危機において、資本は、新たな資本蓄積経路を確立するメカニズムを駆動させる。その一つが、非市場的要因に依る私的所有権の再編成だと言われる。(*2)
それは、多くの人びとのスマホを通じて生み出した行動情報の集積という社会的共有財が、対価を支払われないままに、巨大IT企業群に囲い込まれ、彼らは、そこから膨大な収益を生み出すというビジネスモデルを構築したということだ。産業資本主義の勃興期に、羊毛生産のために、資本家が、共有財というべき農地から、農民を追い出して囲い込んだこと(エンクロージャー)と、類比される事象である。
つまり、多くの人びとのスマホの操作から、欲望の充足を中核としたその人びとの行動という個人情報が、常に資本に監視されつつ、ビッグデータとして蓄積される。そしてまた、それが、マイニング(利潤を生み出す鉱脈を探し当てられ)され、剰余価値へと転換し、資本が蓄積されていくのだ。私たちの日常生活は、スマホを通じて監視され、収益化される。これが、監視資本主義だ。
個人情報は、それぞれ、文字通り個人のものだが、集合体となれば、私益の対象ではなく、社会の共有財だと言える。しかし、人びとは、欲望のままにスマホを使い倒すのだ。ここに、個々人の欲望の充足という利得の総和を超える利潤(剰余価値)が生まれている。それを巨大IT企業が、膨大な収益としているのだ。結果的に、個人個人が、搾取されているという構図が、ここに成立している。
米国の民主社会主義勢力のリーダー、バーニー・サンダース上院議員は、同じく、人類の知識資産という共有財産を利潤に変えるAI企業も視野に含め、株式の50%を税として納税させるという法律を提起している。巨大IT産業が栄えても、雇用の総量は増えず、人びとの貧富の格差は広がり続ける。私たちは、共有財が搾取されていることを、社会的問題として、放置し、黙っていてはいけない。
社会の分断と暴走
前掲した、アルゴリズムは、個々人の嗜好の分野の情報を繰り返し提供するのだから、人びとは、狭い範囲の情報をもって、ものごとを判断したり、価値観を醸成したりすることになる。資本主義経済の進展は、人間を共同体から引き離し、さらにバラバラにして市場に組み込み、人びとは、孤立し、脆弱な個人となった。
さらに、スマホからの情報へのアクセスは、同意見を繰り返し反響させ、異なる意見を排除させてしまうという、エコチェンバー現象により、人びとを断片化し、分断してしまう。人びとの断片化、そして分断は、社会的共通認識の崩壊をもたらし、社会的合意形成を困難にしていく。それは、民主主義の危機でもある。
またスマホからの情報が、悪意の操作により、世論を動かし、暴走を助長し得るということを、問題の視野に入れねばならない。そのことが、民主主義を破壊し、社会を危機に陥れてしまうからだ。サンダース(前掲)が、お金での納税ではなく、株式の過半数を求めたのは、IT企業のガバナンスを機能させるという点で、卓見だと思う。
生きやすく暮らしやすい社会
このように、日常的に、スマホを見るという私たちの何気ない行為が、大きな社会の問題を孕んでいるのだ。我を忘れてスマホ操作に誘ってしまうブルシットジョブを生み出す社会、実存を感じ難い社会も、人びとの孤立・断片化の問題も、次代に向けて人間の尊厳を最も大事な価値として、再編成されなければ、持続可能性を失っていくだろう。
また、私たちは、自分が手段とされないことを、また社会全体が分断と暴走により、危機に陥らせないために、それらを見極める知性を、不断に高めなければならないと、私は思う。
その根底には、自分自身が、自分の人生を、人間としていかに生きるべきか、唯一無二の自分というものを生かし、自分を生きるという自覚と決断が求められる。自分という存在を大切にして生きて行こうということは、他者の同様の想いにつながるはずだ。それが、社会的合意形成や社会的連帯につながり、生きやすい社会をもたらす。小さなことだが、なんらか障害を持つ人びとが、人ごみの中で、スマホの恐怖に苛まれることも少なくなる、暮らしやすい社会をもたらすことになるだろう。
<参考・文献>
*1 監視資本主義は、米国の社会心理学者であり哲学者の、ショシャーナ・ズボフ(ハーバード大学名誉教授)が提唱した。人間の行動データを集積し、それを商品化することで、利潤を蓄積する新しい資本主義の形を、監視資本主義と名付けた。
*2 『思想の言葉』吉原直毅(理論経済学者)、「思想」岩波書店刊、2020年8月号、no.1156から引用
