NO.1672
仏文学者・渡辺一夫(1901~1975)に、「狂気について」という文章がある。15年戦争で、人間の愚かしさにとことん悩みぬいた。この文章が発表された1948年、世相は軍部責任論ですべてが片付き、戦争は日々に遠くなりつつあった。というよりも少しでも早く災難は忘れてしまいたい心根だっただろう。戦争は天変地異とは異なる。いまも、自省・思索を深めなければならない。
渡辺は戦争中、強烈な軍部批判を日記に書き続けたが、検閲を警戒してすべてフランス語で書いたそうだ。軍国主義嫌悪にとどまらず、なぜ人間は戦争のような愚かしいことを飽きもせず繰り返すのか、考え続けた軌跡の一つが「狂気について」である。
戦争は、誰かに責任を押し付けるとか、過去の災難として忘れ去ればすむというものではない。現代の戦争は総力戦である。たしかに戦争を始めるのは権力者であるが、権力者と軍隊だけが戦争するのではない。国民すべてが戦争の当事者である。いまも、新聞の読者投稿では、空襲下を逃げまどったとか、食料で難儀したとか、被害者体験は多いが、相手に対して加害者であることが語られない。戦争に正邪はない。罪責を忘れては反戦・平和は成り立たない。
日本は戦後、一夜にして民主主義になり、文化国家になった。ただし、紙切れの上だけならともかく、いかにも軽い。民主主義を理論で整理できても、人々のものの見方・考え方は容易に変わらない。一人ひとりが民主主義者にならなければ民主主義社会の内実は育たない。いまだ戦前志向の考えを持つ人は少なくないし、全体主義の思想は根強い。文化国家にしても、これが文化国家だという定義すら成立するわけではない。
神と人間について思索を深めたパスカルは、「病患はキリスト者の自然の状態である」と指摘した。アダムが神の命令に背いて犯した、人類最初の罪が原罪である。人間はすべてアダムの子孫として生まれながらに罪を負う。それがキリスト者の自然の状態=病患である。しかし、人は原罪意識を忘れる。はたまた、いけないとわかっていてもブレーキが利かない生きものである。
渡辺は指摘する。狂気とは、原罪の自覚なく、あるいは忘れた状態である。そして、感動・感激にはつねに狂気の翳がさしているから、狂気の事業は荒廃と犠牲を伴う。感動・感激に対しては、冷静と反省を行動の準則にしなければならない。もって銘すべしだ。
真珠湾奇襲攻撃、開戦の報。日本全国、沸きに沸いた。戦果が伝えられると提灯行列、勝利集会—国民の熱狂や支持がなければ、いかに全体主義でも自国民の負担と被害の大きな戦争を継続できるわけはない。結局、勝利のためには、誰もが滅私の覚悟をもつしかない。なるほど、感動・感激のゴールは狂気である。
トランプ的扇動は、感動・感激の脚本・演出・主演であり、人々の冷静・反省が伴わない虚を突いたものだ。アメリカは世界最強の軍事力を有するし、自国内での戦争はやらないのだから、いわば人々は壮大なドラマを見ているようなものだ。嘘とホラを大声疾呼するトランプは、冷静視すれば狂気である。しかし、人々がトランプに同調してともに狂気を演じてきた。自省の時だ。
万物は流転するから、現実的に対応しなければならない。しかし、現実主義であってもすべてが解決しない。ただ変化する状況に場当たり的対応をするだけでは、ひたすら流され続けるしかない。
病患の人間がなすがままに漂流するなら、終末論をなぞるだけだ。まさに狂気の時代である。現実に踏み止まって病患克服の一歩を踏み出さねばならない。思考停止すれば、平和は苦しく戦乱はラクである。やむを得ぬ戦争などはない。働きかけてこそ状況は変えられる。いかに働きかけるか。よりよい未来を目的とするなら、人々に共通する理想を探り、確立するしかない。
