論 考

愚者に抗う

筆者 小川秀人(おがわ・ひでと)

 週刊RO通信no.1671「管理社会が活力を奪う」に触発されたので一筆記しておきたいと思う。

 「愚者」とは読んで字のごとく「愚かな人、ばかもの」を指すが、タロットカードの世界では「The Fool(番号0)」に位置し、「純粋さや無邪気さ」といった深い意味を持つ。逆説的に皮肉を込めれば、純粋かつ無邪気に、そして大真面目に勘違いしている「頭の中がお花畑的リーダー」を戴く組織はお気の毒としか言いようがない。すべて計算づく大立ち回りを演じている輩よりタチが悪いからだ。

 奥井先生がご指摘の「考える葦」が枯れてしまったのは何故か。フランスの哲学者パスカルは、人間は自分が無力であることを自覚しながら考えることができるから偉大であり尊厳があると説いているが、抽象度を下げて「考える葦≒主体的な判断力」と捉えれば、身近で起きている出来事が朧気ながら見えてくる。

 誰かが「多様性(ダイバーシティ)」と言えば、全国津々浦々で猫も杓子も多様性×多様性の連呼だ。とりあえず多様性と言っておけば、管理する側もされる側も批判されることなくマジョリティの側に立てる。つまり流行に寄りかかって「考えない葦」になったほうが安心・安全ということだ。

 また、一時期ほどではないが、国連が「SDGs」を発信した途端にこれまた何の疑いの余地もなく日本中が一斉にサスティナビリティを謳い出す。国も自治体も企業も、残念ながら労働団体も例外ではない。大阪メトロが67億円の特別損失を計上するに至ったEVバス問題や、地方の野や山に貼り付くソーラパネル群などは、その象徴的な成れの果てであろうし、誰かの利権になっているのがオチであろう。

 権威が「アンコンシャス・バイアス(UB)」と宣えば、日本ではほとんど誤用されてしまっている。無意識が意識にすり替わっているのである。UBは、ハーバード大学のマザーリン・バナージ教授らが提唱した心理学の概念であるが、世界の官公庁や企業でUB研修が導入されたものの、実際の行動変容には繋がらず廃止する動きも出てきている。日本でも同様だが、せいぜい機を見て敏なコンサルタント会社や二次利用した学者風情がいくらか儲かった程度の話であろう。

 「多文化共生」はどうか。空想的理念、抽象的かけ声の極みではないだろうか。多文化とは即ち異文化の集合であり、共生は調和して共に生きることだろうが、そんなことが本当に可能か。1989年時点では100万人を切っていた在留外国人数(90日以下の短期滞在者を除く)は、直近の統計では400万人を超えたようだ。これは国連基準に準えれば移民率が3%台に達している。オーバーツーリズムとも相まって、自国を自力で制御し切れない、得も言われぬ焦燥感が日本を覆っている。他国の例を参考にすれば、フランスは地政学的にも歴史的にも移民に寛容なお国柄(移民率10%超)だが、そのフランスでさえ音を上げているのだ。

 以上は一見すると善意的で反論し難く、極限まで美しい漂白されたキャッチフレーズの数々だ。しかし、人間はあまり深く考えずに何かに落ちることで楽をしたい、管理してもらうことで体制の側に居心地の良さを感じる生き物だ。それにみんなが寄りかかることで一気に空気が醸成されてしまう日本で、正気でいることが如何に難しいことかと痛切に感じる今日この頃である。