筆者 新妻健治(にいづま けんじ)
恥ずかしく苦い思い出
労働組合の専従役員をしていたころ、恥ずかしくも、苦い思い出がある。私たちは、そのころ、話題となっていた職務を軸とした人事処遇制度を学ぶために、外資系のコンサルタントに講義をお願いしていた。私は、ことのついでとの思いから、そのコンサルタントに、我が組織が、結成20周年の折に策定した、ビジョンの評価を求めた。
コンサルタント曰く、「これは、ビジョンとは言い難く、活動の柱を列挙しただけのものですね。」と。何が恥ずかしいのかといえば、私たち執行部は、「ビジョンとは何か?」の定義を明らかして、共有することもなく、「ビジョン」という名を冠した活動をしているということで、組合員に対して、アリバイをつくったにすぎなかったことだ。
ゆえに、その「ビジョン」以降の活動は、組織総体として、何を求めているのかということを明確にせぬまま、そしてその意味で、膨大に無駄な時間を過ごし続けていたと言えるかもしれない。それは、私にとって苦い思い出でとなった。
「必ずや名を正さんか」
論語に、「必ずや名を正さんか」という言葉がある。これが意味するところは、言葉について、真に意味するところを問わぬまま、それを正しく使われなければ、また、ことを為す人が、名分(役割)も定めず、ものごとを進めれば、それらはうまくいかず、治政は混乱に至るというものだ。
「Japan is Back!」「日本列島を強く豊かに」という、高市政権が掲げるものがある。これがビジョンと言えるのかどうかは、まずおいて、この言葉が意味することとは何だろうか。
ひとつ言えることは、長引く日本経済の停滞、苦しくなる人びとの暮らし、衰微する日本社会において、思い通りにならない怒りや、将来不安に怯える人びとの情動を煽ることで支持を得て、自らの権力保持を目論むだけの、空疎なスローガン政治に過ぎないということだ。
日本の過去の経済的成功は、歴史を俯瞰すれば、その時代環境においてこその、いくつかの条件が組み合わさったものであり、普遍的なものとはいえない。ゆえに、日本の置かれた現状をふまえずに、過去の経済的成功を想起させる「Japan is Back!」「日本列島を強く豊かに」と語ることは、戻ることのできない過去を未来として、人びとの情動を利用する、もしくは、経済分野からの利権を目途とした、虚妄の打ち出しだと言えるだろう。
国の指導者が、なぜ我が国が経済的にも社会的にも衰微の過程にあるのかということについて、「正しい現状認識」を語ることない。この打ち出しの意味するところの本質を明らかにせぬままに、つまり、名を正すことなく、ことを為せば、治政が乱れることは必至だろう。
ビジョンとは何か?
ビジョンとは、未来の実在を言語化したものと定義される。また、ビジョンを掲げることで、社会や組織、そしてそこに所在する人びとを、未来の実在に向かわせるものだとも言える。
ゆえに、その未来を現実にしていくために、ビジョンとは、案出することが目的ではなく、社会や組織の現実をもたらす人びとに、何をさせることに機能するのかが、最も重要な点なのだ。また、打ち出す側に、その意志が無ければ、ビジョンは画餅に帰すことになる。
その意味から、ビジョンとは、人びとの「そうありたい」「そうしたい」という心の中にある力を引き出し、未来の実在に向けて、人びとが、自ら打ち込もうとすることを提起させ得る力を持つ。
また、そのことは、人びとそれぞれの多種多様なアイデンティティーを、顕わにしていくことにつながっていく。それは、人生の目的である、「人格の完成」に寄与するものだと、言えるのではないだろうか。
また、このビジョンが描く未来の実在という高い目標は、人びとの、内発的に卓越した基準や、そのための行動様式を促すこととなる。ゆえに、人びとは、困難なストレスを抱えたとき、自分たちをさらけ出し、率直に議論し、行動することを厭わない。
そうやって、ビジョンは、人びとが、保守を望む気持ちを乗り超えて、挑戦をしていくことを促していく。それは、「ねばならない」ではなく、「そうありたい」「そうしたい」という、人びとの期待と希望であるがゆえに、軽々とは実現し得ないものであり、おのずと長期的視点を促すことになる。そしてまた、「必要なことなら何でもする。」というように、人びとの心と行動を解放し、1人では成し得ないとして、社会的連帯を必然としていくのだ。
ビジョンとは、人間の尊厳を基礎に、社会的連帯によって、望ましい未来を創造する働きかけだと言えるのではないだろうか。
正しいビジョンを語れ!
であれば、やはり「Japan is Back!」「日本列島を強く豊かに」とは、ビジョンとは言いがたく、権力者の我執により、人びとの情動を煽る、虚妄なのだ。このような打ち出しをする高市氏に、300人をゆうに超える自民党議員が参集するという。彼らには、自らの権力保持と猟官という動機が、あからさまに見える。情けなさを超えて、危機感は高まるばかりだ。
しかし、この虚妄の打ち出しを撃破すべき野党勢力がまとまらない。彼らは、微差誤差の政策次元の競い合いに終始する。また、右でも左でもなく中道だと、与党に抗して、路線の選択を、泥縄で有権者に迫るのだから、それは、与党の手の内に収まるものでしかなく、彼らは虚しく後退してしまった。彼らがまとまらないのは、政策次元の争いを止揚する、国民のための共有するビジョンが無いからだと、私は考える。
いまこそ、名を正して、ビジョンを語る時ではないのだろうか。
