週刊RO通信

「人間原子炉」の反核精神

NO1670

 「この先には、傷つき苦しむ人の写真や絵を展示しています。見ると気分が悪くなりそうな人は、ほかの展示で原爆の被害を学びましょう」――1955年開館の広島平和記念資料館が、悲惨な! 展示を見ない「選択展示」を導入するそうだ。

 修学旅行で広島市を訪れた小中高におこなったアンケートの「展示を怖いと感じて見学できない児童への支援があれば」という声に関する対応である。恐怖が強すぎると、生理的な拒絶につながり思考停止を起こし、資料館を訪れなくなると心配されているようだ。

 悲惨なものは見たくないという心情は子どもだけではない。大人にも少なくない。資料館の展示は、可能な限り核被害を伝えて、核兵器の反人間性について考えてもらいたい。展示が悲惨だ、残酷だと声が上がるが、展示で実際の原爆被害が再現できるわけではない。被爆者にすればこんなものではないという切実な思いであろう。

 しかも、原爆で生き残った人々は世間の同情に支えられるどころか、直接間接の偏見と差別に耐えねばならなかった。その事情は被爆の傷をさらに深め拡大した。中沢啓治が『はだしのゲン』に託したのは、「踏まれても、踏まれても、めげず逞しく生きる麦の芽」たろうとする魂の叫びである。被爆の苦悩から立ち上がろうとするが、新たな加害と闘い続けねばならない被爆者の真実であった。

 おおかたの人は悪意がないつもりだ。被爆者に対する差別も偏見も抱いていないと思うだろう。しかし、被爆者の真実を知らずして、その苦悩を受け止めなければ、問題をうやむやにする。実際、その傍観者の態度が日本人の反核運動に対する低い関心であり、敗戦後の日本の進路を捻じ曲げてしまったといわざるを得ない。

 「ヒバクシャ」が国際的認知と共感を得るようになったのは、核が人間の理性や知恵では統御できず、人類の破滅を招くことが理解され共有されてきたからである。反核運動の歩みは地味であるが、核のおぞましさ、超破壊力に対する反核運動が、世界中の思索する人々を啓発し続けてきた。まさに人間精神を耕したのである。

 さらに反核運動を進化させるための思想を考えるとき、わたしは森滝市郎先生(1901~1994)をつねに思う。先生は1956年設立の日本被爆者団体協議会の運動を生涯担い続けられた。高等師範の哲学教師として、三菱重工江波造船所で学徒動員の指揮中に原爆投下。かろうじて生還した。やがて反核運動に立つ。

 原爆死没慰霊碑前で、先生が座り込みの際、「座っとって止められはすまいでえ」という女児のつぶやきを耳にした。思索を深めねばならぬ。反核運動は、「自己否定」なくしては力にならない。不条理な状況に放り出された自分から、自己投企する自分へ。状況を変えるには自分こそが変わらねばならぬ。生涯貫かれた覚悟である。

 原爆体験で、先生の哲学は「種」から「類」へ変わった。人類は生きねばならない。先生を突き動かしたのは、核の非人間性に尽きるだろう。反核運動は必然的に世界運動でなければならない。

 1976年、先生をお訪ねした。先生は反核運動の闘士であるが、真骨頂は哲学者森滝市郎である。類の生存のために、「慈の文化」をめざすといわれた。力の文明が行きつくのは戦争である。平和のための防衛とは言葉のトリックである。核の平和利用も同じだ。

 そこで到達したのが「人間原子炉」という発想である。自我の殻を破って精神の連鎖反応を起こす。核とは違って人々の連帯の連鎖反応を起こすのである。「慈の文化」「自己否定」「人間原子炉」という哲学を、先生は最後まで貫かれた。そこに猛々しさはない。どこまでも「考える葦」の真摯な姿勢である。

 ――広島平和記念資料館は、今後も考える人を生み出す揺籃として確固たる存在であってほしい。見ても考えない人は絶えないだろう。考える人に期待することこそが大事だ。