NO.1669
再審制度改定に期待が集まっていたが、どうも歯切れのよくない動向で、このままではうやむやになることを懸念する。おおかたの人は再審制度と縁がないが、自分が渦中の人にならなくても、この問題に対する関係部門に熱がないことが大勢に影響なしとはいえない。ことは、民主社会の根幹にかかわるからである。
ルソー(1712~1778)は『社会契約論』で、「社会の秩序はすべての他の権利の基礎となる神聖な権利である。しかしながらこの権利は自然から由来するものではない。それだから約束に基づくものである」と主張した。同書を読まない人でも、この考え方には共感し理解するだろう。こうもいう。「刑罰が多いことはつねに政府が弱いか、怠けているかの印である」。
人間は社会生活する。社会抜きでは生きられない。刑罰は、その社会で生活するために、やってはいけない行為を定めた掟である。至極当然のことだが、やってはいけないことが多ければ多いほど、個人は窮屈である。刑罰を増やして厳しく取り締まれば掟破りは減るかもしれない。しかし、人間は本来自然に生まれてきたのであり、窮屈を好む人は少ない。生まれて以来自由を知らなければともかく、窮屈な社会において人間は本来の天才を発揮することはできない。
中国の『書経』は、尭、舜から秦の穆公に至るまでの政治史で、教戒を記した中国最古の経典とされる。ここに、「罪の疑わしきは惟(これ)軽く、功の疑わしきは惟を重くせよ」とある。信賞必罰というが、罰は慎重にも慎重重ねておこなうべきであり、論功はできるだけ認めるべきだとする。円満に活力みなぎる社会を運営するには人を懲罰で委縮させるのではなく、各人の天才を発揮させるべしとする。まことに立派な見識ではなかろうか。
法とは行為規範(rule of conduct)の1つとしての地位を占める。人はいかなことをしなければならないか、いかなることをしてはならないか、の行為規範である。法とは人を縛ったり、裁くことに本願があるのではない。人としての権利が法である。rightこそが法の本体である。
わが日本国憲法第31条には、「何人も、法律の定める手続きによらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」とある。刑事訴訟法336条には、被告事件が罪にならないとき、または被告事件につき犯罪の証明がないときは無罪とある。
どんな悪党でも法の定めるところによってしか罰せられない。裁く側が誤ったり、恣意的な判断をすれば、裁かれる権利が無視されることになる。個人が天下の大道を闊歩できるのは、法=権利に基づいているからである。裁く側は、間違っても罪なき人を罰してはならない。そこで「疑わしきは罰せず」(疑わしきは被告人の利益に)というのである。
裁判官は、法律によって事の曲直を裁く。裁判所に提出される犯罪の捜査は、警察官・検察官によっておこなわれ、検察官が控訴を提訴・維持する。裁判は、検察官から提出された資料だけで裁くものであるから、取り調べ内容の真実性はもとより、その質が裁判の帰趨を決定するといっても過言ではない。
再審は、刑事訴訟法上、確定判決に対し、主として事実認定の不当を是正するために、認められた救済手続きであり、有罪の判決を受けた者の利益のためにのみ許される。しかし、再審の扉は容易に開かない。裁く側の苦労が並大抵でないことは理解するが、たった1人の冤罪であっても、それは国民の頭上に官権国家のナタを振り下ろすことである。疑念が発生すれば、虚心坦懐に再検証する姿勢が必要である。それなくして民主社会の発展は望みにくい。「疑わしきは罰せず」の原則に立ち返る必要がある。
