筆者 新妻健治(にいづま・けんじ)
閉塞感漂う日本社会
日本社会に閉塞感が漂う。人びとの不安や不信が、行き場を求め、他者への不寛容や、民主主義を蔑ろにする反動的なポピュリズムに行き着き、社会に殺伐とした雰囲気が拡がっている。指導者たちは、激動する国際情勢を枕詞に、敗戦後日本の国是といえる平和主義を蔑ろにする主張を、ためらうことなく語るようになった。戦争の記憶が薄れ、人びとは不安や不信の解消を求め、指導者の扇動に呼応しつつ、戦争を許容していくのではないだろうか。「新しい戦前」という言葉が表すように、えも言えぬ危機感も漂っている。
このような事態にあっても、政治は、与野党含め、なぜ、日本社会はこのような事態に至ったのか、問題の構造や本質を明らかにした「正しい現状認識」語ることも、それを起点とした、次代社会の構想を国民に語り、主体的な同意と参画を求めることもない。政治家は、「俺が、俺が・・」と、国民を政治の主体とせぬまま、政策次元の問題提起の枠を出ない。
大災害が露にした日本の問題の本質
東日本大震災後の日本社会の論壇において、どのようなことが論じられていたのか。これらについての評論を担った著者の本を再読した。思い起こせば、この甚大な災害は、繁忙な日常ごとに追いやられ、私たちの充分な認識には上らなかった、日本社会の構造的な問題を露にしたと思う。
象徴的だったのは、福島第一原発の事故であった。原発は、「原子力の平和利用」という詭弁とともに、「安全神話」を流布しつつ、原子力村(政・官・財・学)という利害を共有する人びとが導入し、それを支えてきた。加えて、私たちは、何の問題もないかの如く、日々、そこから生み出される電力の消費を当たり前としてきた。それを踏まえれば、日本社会の総体が、この問題を許容してきたのだろう。
その結果、この事故は、電源立地とその周辺の人びとに、取り返しがつかない塗炭の苦しみを与え、日本社会に広く恐怖と動揺を与えた。しかし、気づけば、利害共有者のだれ一人、どこ一つとっても、原発のこれまでをつぶさに辿り、この問題の本質について総括し、責任の表明をし、どうしていくべきなのか、行動した主体はなかったように思う。
そしていま、政府は、事故後の「原発依存の低減」の基本方針をいつのまにか翻し、「最大限の活用」を謳う。原子炉40年の耐用年数は延長され、様々問題を起こしながらも、再稼働が拡がった。安全規制は大幅に強化されたが、その規準も、事故発生の想定も、地域住民の避難計画も、再稼働を目的化した新たな「安全神話」を、創り出しているのではないかと、専門家は語っている。
福島第一原発の廃炉の見通しは遠い未来のこと、放射能の減衰に数万年かかると言われる、核のごみ処理問題もめどが立たない。そして、核のごみの再処理からの燃料化という未完のプロジェクト、さらには、「永遠に未完の技術」と揶揄される、「核融合」までもが喧伝されるという懲りない事態なのだ。
このようなことが敢行されていってしまう問題の基底に、日本という国の在り方が、翻って、それは日本人の生き方が、現れていると言えないだろうか。各々、それぞれの利害動機のもとに、人びとは利権に群がり、後戻りできない同床異夢の問題事態を、社会的な同意不同意がうやむやなまま、進行させていくのだ。
そこには、「なぜ、なんのために…」、それは為されるべきことなのか。そしてまた、その根本に、私たちは、人間として、いったい何を最も大事にし、守るべきなのかを問うという哲学が、決定的に欠落しているように、私は捉えている。
近代国家を支える精神構造
政治学において、近代国家を成立させているものは、法律や制度といったようなものに留まらず、そこに所在する人びとにおける、「進歩」「人民」「個人」という、3つの精神的で理念的な支柱の存在と、その相互の緊張関係という構造にあるとされている。
「進歩」とは、国家という人びとの集合が、常により善い方向に向かうのだという信念である。これは、そこに所在する人びとの活力と参画を引き出すものとなる。「人民」とは、「われわれ」という連帯意識であり、その国家に正統性を与えるものである。またそれは、国家の枠組みを支える法や制度に正当性を与えるものともなる。「個人」とは、理性的で自由な意思を持つ自律的な主体の存在であり、国家を構成する単位である。
そして、このような「個人」の存在が、国家が掲げる「進歩」に向けて、自らの保有能力を最大限に発揮できる生き方を可能とする体制が、社会的連帯としての「人民」を必然とし、そのような現実が、人びとの内心に、国家という集合体の正統性を認識させ、法や制度の正当性を認めさせる。そのことは、「個人」という理念的存在が、「進歩」「人民」の在り方に緊張感をもたらし、「進歩」を個人の尊厳の拡張に向けさせ、あらぬ方向への暴走を抑止し、人びとにとっての社会の健全性を維持させるのだ。
近代日本の来し方
日本は、「強く(軍事)豊かに(経済)なろう!」を国家目標とし、天皇を戴き、個人という主体を否定し、臣民国家として、その体裁を形作って、後発の近代国家として出発した。しかし、この体制は、第二次世界大戦の敗戦をもって、大きな破綻をきたした。
敗戦後の日本は、破綻をもたらした問題の本質を突き詰めて総括せぬまま、已むに已まれぬところの平和国家を求め、廃墟と貧困・飢餓からの脱却を希求し、「強く豊かになろう!(経済)」が、国家目標となった。そこには、敗戦という破綻の問題の本質を突き詰めぬままがゆえに、最も肝要な「個人」を主体とする民主主義は、与えられたかたちのままで、深く追求されることなく、経済に置換されていったように思える。
この歴史的経過を、近代国家の精神構造から総括すると、日本という国は、戦前戦後を通じて「進歩」=国家目標が、国民を強力に引き付ける力をもって(持ちすぎて)、「人民」という社会連帯を、不健全な方向に機能させてきた。そしてその問題とは、「個人」という理性的で自由な意思を持つ、自律的な主体という理念的存在が、戦前は「臣民」として、敗戦後は経済成長至上に滅却されてしまったことにあると、総括されるのではないだろうか。
繰り返しになるが、いったい何の為の「進歩」=「強さと豊かさ」なのか、この国は何を大切にし、守るべきなのかの哲学を、やはり、決定的に欠いてきたのだと思う。
しかし、高市総理は、歴史観と哲学の貧困さを露呈しつつ、三度目の「強く豊かに」を掲げる愚行を犯している。
日本社会の現状
敗戦後の諸条件が、日本に高度経済成長をもたらした。このことにより、掲げた国家目標=「進歩」は、充分に機能し、以降、日本は経済大国としての道を歩んだ。しかし、この成功のもとの国家体制が、その成功体験の余波により、以降の20年余で、堅固に構造化されていった。人びとの暮らし方、そして生き方も、その一つとなった。
そして、経済のグローバル化と、資本主義の大きな変容に乗り遅れた日本経済は、いま、衰微の過程に入った。ゆえに、経済成長至上=「進歩」という、人びとの精神的支柱は消えた。ゆえに、そのもとに構造化された体制は機能不全となり、人びとの暮らし方・生き方の持続性も脅かされ、社会は不安定さを増すことになる。
このことは、近代日本の発足以降における、人びとの自由度の高まり、共同体の解体と、人びとの孤立化、社会の汎システム化から、人間として生きる力の脆弱な、相当規模の社会層を生み出してきたという、大きな社会変容と重なり合っている。
このような社会層は、経済的にも心理的にも不安定となり、政治の機能不全や、権益を握る人びとが、この問題事態をもたらしたとして批判をし、留飲を下げる。もしくは、扇動的な言質や、排外主義も含めた極右思想に、心の安寧を求めていくことになる。
権力欲に溺れる者は、動物的勘でこのような事態を、権力の拡大と保持に、狡猾に利用できる力を持つ。歴史は、このことが、大きな問題の事態をもたらすことを証明している。
次代社会の構想に向けて
日本は、世界的な情勢の変化や社会変容のなかで生き残るため、近代国家という体制を構築した。また、敗戦という国家破綻からの再生を企図して、再び、国家体制や社会は、作り直されてきた。
そしていま、考えるに、日本社会は、「進歩」という精神的な支柱を失い、大きな動揺に見舞われている。また、近代国家として成立して以来、「個人」という理性的で自由な意思を持つ自律的な主体の存在を欠くという本質的問題を抱えたまま、あらぬ方向への「進歩」「人民」へという、暴走の危機を迎えている。それは、あらためて、国家・社会体制は作り直されなければならない契機を迎えていると、考えるべきではないだろうか。
誤解を恐れず、大胆な次代構想を描くとすれば、近代に築かれ、大きな社会変容をもたらしてきた、国家・社会体制および経済も、この本質的問題の解決を根本において、今日的に大きく、真逆の方向に向かえばよいのではないだろうかと、考えてみた。それは、解体された共同体の作り直し、失われた人びとの社会関係の再構築、汎システム化というお任せ依存の社会体制から、人びとが、多くのことを引き受けて取り組む主体となる体制への転換、非資本主義・非市場経済領域の拡大等々。
それらは、「個人」という理性的で自由な意思を持つ自律的な主体の存在が、そのことが最重要のこととされる国家目標=「進歩」のもとに、もてる保有能力をそこに向けて最大限に発揮できる創造的参画をもって、実践のもとに、体系的に判断され、その善き連鎖を生み出しながら、形作られていくのだろうと思う。しかし、この程度の論は、自分自身の思索の踏み台をつくったにすぎない。
憲法記念日に思う
近現代の日本の本質的問題が総括されなかったことに触れたが、そのことは、敗戦による国家破綻から、二度とこのような事態をもたらさぬよう、この国家の再生を、いかに導くかとして起草された「日本国憲法」に、そのことは、すでに謳われているのだ。
要約すれば、「日本国憲法」は、個人の尊厳を基礎に、平和を自らの意思で維持し、民主主義を主体的に運営する国民であることを求めている。これを語らずして、憲法改正の喧伝し、大衆を扇動しようとするのは、明らかに、政治家たちの姑息な我執であり、他者を手段とするという、国家目標=「進歩」の否定に他ならない。だからこそ、(見えざる何かの)手段とされない、自分でありたいと思う。
