NO.1665
日本国憲法の卓抜した素晴らしさに惹かれたのがいつ頃だったかはっきり思い出せない。学校の授業であったかどうかも記憶がないが、歳を重ねるにつれて大事にしたい気持ちが強くなっている。素人勉強なので憲法学の知識は粗末なものだが、日本国憲法がいかにして生まれたかを考えると、国民と国家の歴史の証言でもある。
いま、あれやこれや改憲騒動を起こしている人々は、愛国者気取りだろうが、日本国憲法が生まれた歴史のもっとも大事なことを見過ごしている。歴史を正しく認識すれば、アメリカの押し付け憲法論など振り回すはずがない。押し付け論ならば、大日本帝国憲法は、国民が頼みもしないのに、すめらみことが押し付けたものだが、さらに憲法を下し置かれたのだからありがたく思えという荒唐無稽な「結構なもの」であった。
大日本帝国憲法のもとで、軍部が1931年9月18日、奉天(現瀋陽)北方の柳条湖の鉄道を爆破する謀略を企てて起こした満州事変を皮切りに、32年、満州国設立、37年7月7日には、盧溝橋事件を引き起こし、日中全面戦争に至った。攻めるだけしか能のない軍部と、それを追認するだけの政治家の一蓮托生の侵略戦争は、中国のしぶとい反撃によって出口を失う。次は南方の資源を求めてますます泥沼にはまった。じり貧よりも一か八かの賭け勝負に活路を見いだすとばかり、41年12月8日に太平洋戦争に突っ込んでしまう。じり貧ならぬドカ貧への道を暴走したわけだ。
15年戦争は悲惨極まる展開をした。45年7月26日、ポツダムにおけるアメリカ合衆国、中華民国、イギリスが日本に対して、無条件降伏を勧告した。これがポツダム宣言である。日本はこれを無視した。アメリカは8月6日広島、8月9日長崎に原爆を投下した。ソ連は8月8日対日参戦を開始した。ようやく日本政府は、8月14日にポツダム宣言を受諾して、15年続いた戦争が終わった。最後の最後まで彼我の力を正面から認めることができなかった軍部・政府は、一貫して正しい判断ができなかったのである。もう少し、しっかりした指導者がいればと思うが、ないものねだりである。
ポツダム宣言は、無条件降伏を勧告し、連合国による降伏条件と戦後の対日処理方針を定めた。軍国主義的指導勢力の除去、戦争犯罪人の厳罰、連合国による占領、日本領土の制限、日本の徹底的民主化などを要求したのである。日本の一般民衆は、国際情勢に疎く、軍部・政府が垂れ流す情報だけが正しいと信じ込んでいたようだ。だから、ポツダム宣言が出されても、内容の意義がすぐに理解できた人は決して多くはなかった。
しかし、鬼畜米英と罵り倒していたアメリカ駐留軍が入ってくる事態と、その人間性、自由な精神に触れて、ようやく過去の自分たちがおかれていた事情が理解できるようになったのであろう。しかし、大都市部と地方都市部ではだいぶ時間差がある。徴兵されて身内が亡くなった事例は全国同じであるが、戦争被害の悲惨さの認識はかなり違う。極端にいえば、広島と長崎でも被害者とそうでない人々との間の溝は決して小さくはない。おかれた状況や事実認識の違いは大きい。とくに忘れてならないことは、日本人全体としては他国に対する加害者である。しかし、日本人の加害者認識は希薄だ。
ポツダム宣言を具体化したものが日本国憲法である。日本国憲法は、加害者として反省し、再起を誓うところから生まれた。戦争の歴史そのものが日本国憲法に書かれているわけではないが、憲法を論ずるにあたって、戦後を出発点として考えるのではなく、15年戦争が生んだ憲法だということを見失ってはいけない。そして、15年戦争を生んだのは大日本帝国憲法から信じ込んだ日本のあり方である。改憲論争に熱を上げる前に、歴史修正主義ではなく、正しい自覚歴史観を磨いてもらいたい。
