NO.1664
新聞の読者の投稿が気になった。投稿者は教育団体職員・長尾松代さん(59)、母親は80歳以上であろう。
――近くで暮らす認知症の母は、娘の私との同居も、施設への入居も、介護サービスも強く拒み、1人で生活している。最近、できないことが急速に増えているが、他人に頼るのをよしとしない母は、自分で何とかしようと頑張ってしまう。
先日、母の洋服のポケットからレシートが出て来た。必要なものは基本的に私が買うようにしているが、昔からスーパーに行くのが大好きな母にとって買い物はやめられないようだ。そのレシートを見て驚いた。お気に入りの近所のスーパーではなく、少し離れたドラッグストアのものだった。
ハッとした。近所のスーパーは最近、清算がすべてセルフになった。母はそれに対応できず、遠くても、店員が支払いの最後まで対応してくれる店へ足を運んでいるのではないか。プライドの高い母にとって「できない」「助けて」は言いたくない言葉なのだ。
最近、「早く死にたい」が口癖になっている母。今の社会で「生きる」自信を失ってきているのではないだろうか。ため息が出た。人知れず行き場を失いかけている母のような人は少なくないのかもしれない。――
わたしが買い物をするスーパーも少し前にセルフレジが導入された。品物を置く場所が狭く、気ぜわしい。従来通りのレジもあるので、よほど込まない限りこちらを使う。決して年配者ばかりではなく若い人もよく使っている。
スーパーは、安価で豊富な品揃えが魅力であるが、買い物する人は、棚から必要な商品を見つけて機械的にお金を支払えば満足するのではない。人から買っておカネを支払いたいというのは実に人間らしい心情である。意識しているか、していないかはともかく、買い物もまた社会的コミュニケーションの体感である。買い手と売り手が商品を媒体として満足を交換しているともいえる。
人が社会の一員として、自分が社会に参画している充実感をもつのは、他者と何らかのかかわりがあるからである。日常のささやかな体験を拾ってみよう。自転車走行に対する青キップ発行が話題を呼んでいるが、自転車乗りにもう少し常識を弁えてほしい。幅3メートルそこそこの歩道を乱暴に走行する。交差点で下車して自転車を引く人を見ると思わずありがとうと言いたくなる。自動車が怖いというが、ルール無視をするのは自転車のほうがダントツだ。
雨の日、狭い歩道ですれ違う時、相手の傘と振れないように、少し傾ける人に出会うと気持ちが浮いてくる。以前も多くはなかったが、最近はきわめて少ない。他者に対する些細な配慮を感ずると本当に嬉しいものだ。ささやかなマナーを美徳に格上げしたい。
1990年代半ばの勉強会で若い人が、「朝出社して、一日中誰とも話をせず帰社する」という話を聞いた。「それはまずいだろう」というと、「他者と話さないほうが煩わしくない」と応ずるので驚いた。しかし、いまでは至極当たり前みたいである。
コミュニケーションの面からすると、いまの社会は殺伐としている。職場社会のコミュニケーションが著しく劣化したのは1990年代後半からであるが、社会全体にわたってコミュニケーションが悪くなったと考えるべきだろう。人の手から商品を買いたいというのは決して高齢者の郷愁ではない。少なくともコミュニケーションの意義を体得していたのである。
コミュニケーションが成立したから社会が形成された。コミュニケーションが劣化することは、社会が崩れることを意味する。社会は、卓抜したリーダーが一声かけて活力を発揮するようなものではない。コミュニケーションを本気で考える人がもっと必要だ。
