NO.1656
最近はほとんど聞かないが、古来、日本の美称は豊葦原の瑞穂の国である。葦が豊かに茂る瑞々しい稲穂の国という。ところで、キリストは群衆に向かって、「あなたたちは、何を見に荒野に出て来たのか。風に揺らぐ葦であるか。」と語った。(マタイによる福音書)パスカル(1623~1662)は、聖書から「考える葦」という言葉を生み出した。風に揺らぐだけでは能がない。
高市氏は首相所信表明演説でも、「私は、日本と日本人の底力を信じてやまない者」だとして、「強い経済成長」と、「世界の真ん中で咲き誇る日本外交」を取り戻すと述べた。これからの政権運営に当たって大いに景気を付けた。調子と景気のいい話で盛り上げるのは選挙戦から一貫している。神輿担ぎ風、景気をつけろ、塩撒いておくれ、わっしょい、わっしょい、だ。
それにしても、底力はあるのだろうが、日本経済の沈下ぶりは景気を付けて立ち直るほど安直ではない。1990年代から活力がない。GDPを国際比較すれば、2000年に中国、24年にドイツ、25年にインドに追い越され、一人当たりGDPは世界の40位あたりをうろうろしている。しかも反転攻勢の気配が見えない。
目下の経済も、国債発行残高がGDPの2倍、円相場が日本の経済的地位下落の証明、輸出は円安で持たせている。株高といっても、中身が伴っていない。社会保障、医療・介護保険は綱渡りのありさまだ。物価高や低賃金で、保険料下げろ、消費税下げろの不満山積、高市的底力論に確信持つ人が多いとは思えない。
こんな次第で、先日の衆議院議員選挙が、新しい時代のページを開いたとはとても考えにくい。とりわけ、自民党諸君が圧倒的な国民的支持を得たなどと大間違いを起こさねばよいが、過去の体験からすると、次の選挙までの4年間、国勢退潮を加速させないだろうか? わたしは暢気な性格だが、心配し始めるときりがない。
こんな時は、先達の優れた見識から考えるのが一番だ。思い出すのは、夏目漱石さん(1867~1916)の講演である。養生に出かけた修善寺での大病で生死をさまよい、半年超の闘病生活から解放されて1911年8月、関西4か所で講演した。なかでも「現代日本の開化」は、いま115年経てもきわめて有益である。
漱石さんは、「開化とは、人間活力の発現の経路である。」とする。開化を進めるのは、人が労力を節約したいという考えと、自分の勢力を消耗(発揮)したいという考えによる。短く的確な要約である。活力発現の経路という表現は、開化がダイナミックな概念であって、人間の活力の状態によって移ろうことを指摘している。
ただし、日本は200年の鎖国の扉を外からこじ開けられた。開いた扉から外界を見て、これは大変急がにゃならぬとばかり、「あたかも天狗にさらわれた男のように無我夢中で飛びついて行く」「その経路はほとんど自覚していない」ようなものだ。
ところで、現代日本の開化というものを断じれば、「西洋の開化は内発的であって、日本の開化は外発的である。」という。外から開化のきっかけがこじ開けられたのであって、自力で開化の途を歩んできたのではない。彼我の差は数十倍、いや数百倍にも及ぶ。
漱石さんの指摘は、当時からまったくそのままである。追いつき追い越せで一目散に走ってきて、気がつけば経済大国になっていた。追いつけば次はどうするか。追い越すには、まさに自発的パワーが必要だ。しかし、バブルにのぼせ上がり、「内発的」の意味を考えもしなかった。その悪癖はいまもって変わらない。日清・日露戦争で一等国とのぼせ上がり破滅へ向かったあんぽんたんだ。
いまだ経済大国と思い込んでいる人が多い。錯覚が支配する社会が王道を歩めるわけがない。「一億一心、考える葦になりましょう」。良薬はこれしかない。
