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全ての道はアフガンに通ず

奥井禮喜

感染症危機は増幅された

 危機とか、転換期という言葉は使い古されて耳タコだったが、昨年からのコロナ騒動は間違いなく危機である。コロナウイルスは姿が見えないから厄介極まりない。収束の見通しが立たないから不安でもある。

 常識的レベルで危機意識をもって、セルフ・ロックダウン(自粛)をしている立場から、コロナ騒動の経緯を見ると、国・自治体の感染症対策システムが弱体である。国と自治体の連携も、しばしばギクシャクする。

 菅氏は「コロナに打ち勝つ」だの、「安全・安心」を唱えてきたが、自粛頼みの「かけ声対策」路線だから、医療崩壊を招いても不思議ではない。

 とくに心配するのは、内閣中枢と官僚、専門家、保健・医療関係者の連携が円滑でない。内閣中枢と官僚は言葉を形作るのが得意だが、5回にわたって緊急事態宣言を発したこと自体が、言葉の空振りを証明して余りある。

 内閣中枢と官僚は相対的に1つに見えるが、専門家との協働作業がうまく運んでいないことは報道を見るだけでも明らかである。さらに、保健・医療現場との連携も効果的とはいえない。つまり、コロナ感染拡大防止という課題を取り組む体制が確立せず、日本の保健・医療体制全体が問われる事態を招いている。果たして、関係者にかかる危機感が共有されているだろうか。

 5回目の緊急事態宣言発出に際して、菅氏は「今回の宣言が最後となるような覚悟で対策を講じる」と語った。これを素直に理解すれば、「いよいよ決戦の時来る」、戦前であれば、「皇国の興廃この一戦にあり」となる。

 ところが、菅氏が読み上げたペーパーは、「今回の宣言が最後となるような覚悟」をするのであって、講じた対策が奏功するかどうかを保証しない。国民は対策の奏功に期待するが、菅氏は覚悟したのみであるから、緊急事態宣言の結果がどうなろうとも、覚悟は覚悟、結果は結果なのであって、踊ったのは言葉だけなのである。(もちろん、人々はとっくにお見通しであるとしても)

検証・反省しない性癖

 昨年から1年8か月、実行したことの検証(反省)を1度もおこなっていない。言いっ放しのやりっ放しだから、何度でも前轍を踏む。前轍を踏んでいるという意識すらないみたいである。企業が品質第一を問われるように、行政にもその品質が問われているという認識がほしい。

 さて、状況は時々刻々変化する。A時点における分析はB時点では過去のものだ。国民は、ある状況において短期決戦を思い描くが、状況変化の視点に立てば、短期決戦が将来に向けて延々と続くともいえる。

 決戦は終わるまで続く「連続決戦」である、決戦が続いているのだから、切れ目なく実行中である。「Plan・Do・See」サイクルの、Doが続いている限り、まだ「See=検証(反省)」の時ではないという理屈も成り立つ。まさか、こんな理由で検証作業をやらないのだとは思わないが、検証作業を怠る体質では、抜本的改善は不可能である。品質は劣化するのみだ。

 1941年12月8日(日本時間)の真珠湾攻撃(戦術)は、大きく一撃しておいて、相手がもたついている間に外交交渉で優位に立つ。戦争行為は短期決戦で早々に外交に軸を移すという戦略であった。しかし、これは当方の希望的構想に過ぎず、相手がその手には乗らない。人々も、緒戦の華々しい成果に酔って、勝利したような気分になる。以後の戦争行為にばかりのぼせ上った。

 その結果、ずるずると5年間にわたる大東亜戦争になった。短期決戦が連続決戦になった。日本は緒戦を除けば大方は劣勢、ないし敗色濃い戦争を続けているにもかかわらず、Do真っ最中で、Seeの出番がまったくなかった。戦争継続しているかぎり敗北ではないわけだ。挙句、全面的降参したのだが、終戦という言葉で本質をごまかしてしまった。いまもそうである。

 1931年満州事変から、37年日中戦争を経て45年大東亜戦争に敗北してからも、15年にわたった昭和の戦争のSee(反省総括)はなされていないのである。この性癖は極めつけ悪しき伝統である。

基本原則を軽視する性癖

 だれでも知っているように、すべての疾病対策は、早期発見・早期治療が原則である。とりわけ、感染症対策においては、第一に、早期発見=3T(Testing感染者発見・Ttacking感染経路特定・Tracing接触者追跡)が鉄則である。感染者を他者と遮断して、さらなる感染拡大を防止する。ところがこの間、感染拡大防止の早期発見には、全く失敗してしまった。

 早期発見体制が整わないから、早期治療ができない。早期治療ができないから病床が塞がる。いまや、自宅待機という医療難民が溢れている。ワクチンは他国が開発してくれたが、国内では治療薬の開発も捗々しくない。災害に対する未熟な対策(人災)が加わって複合災害を招き、危機が増幅された。

 未知の事態にたいしては、可能な限り科学的知見を集め、合理的な戦略戦術を立てるのが定石である。しかし、前述のように、関係者の円滑な連携が不十分であって、司令塔不在が指摘され続けている。

 巨大な天変地異や大事故が発生すると、パニックが発生する。とくに、エリート・パニックというものが災害対策において、極めて大きな影響を与える。災害対策の処理に当たる政治当局者、とりわけリーダーたる政治家、学者・研究者、報道などのパニックが、災害増幅の人災を招く。

 1995年の阪神淡路地震では、自社連立政権、多党化時代であったが、比較的エリート・パニックは抑えられた。2011年東日本大震災では、下野中の自民党が国会で、この時とばかり、直接関係のない安全保障に対する民主党の方針を叩き、災害復旧活動の議論ではない議論を吹っかけた。いま、野党が国会開会を要求しても無視し続けるのは、当時の自分たちの所業を想像するからだろう。

 極めて広範囲にわたった震災であり、原発事故が発生したので、国民的規模でのパニックも心配された。国民は、被災された人々も含めて賢明な態度を失わなかった。震災特別税に反対する声がほとんどなかったのは、見上げた見識だった。ところが、震災特別税はその後、さしたる審議もなく森林特別税へ変わった。取れるときは取る、一旦取った税は取り続けるという、卑しい政治家的性根が人々の美点に泥を塗った。

危機の中枢は政治にこそある

 9年に及ぶ安倍・菅内閣の政治は、与党が数の力で民主主義の「形式」を続けてきたが、中身は議会政治の空洞化である。安倍内閣の国会審議のざっと半分は安倍氏を筆頭にするスキャンダルに関するものだ。それも含めて、与党は数の力で政権を維持してきた。議会は、人間の頭数で押し切られるが、コロナウイルスのような応用問題が登場すると、頭数ではなんともならない。

 コロナとの戦いに勝つ――と広言するならば、問われるのは科学戦である。まともな政治的見識を持つならば、政治家は、あらゆる科学的知見を集めようとする。ところが、永田町政治の慣習に浸りきっているから、科学的知見を集める裁量を持ち合わせない。日本学術会議会員任命拒否問題で露呈したように、菅氏らの考えは、科学者であろうが、誰であろうが、政治の采配を取る自分たちの権威に従えというのである。

 権威は何に由来するのか。たまたま菅氏は首相というポストに就いているが、権威は国民に由来する。仮に自民党支持者が全面的に菅氏を首相に選んだとしても、せいぜい100万人程度である。何よりも重要なことは、首相といえども、国民に対する公僕である。首相であるから、すべては自分の権威に従うべしと考えるならば、本末転倒、増上慢も甚だしい。

 あえていうが生身の菅とはいかなる人物であるか。首相という肩書がなければ、まったく並みのオッサンと変わらない。国会答弁にせよ、記者会見にせよ、菅個人の言葉が聞こえない。力不足である。役が重たいから三文芝居になる。

 古今東西、偉大な政治家として名を残した人は少なくない。まことの政治家たる人々は、自身の言葉で人々の共感を獲得するべく、心身をすり減らした。それでも、とても十分ではないということを知っているから、首相になると自身の思いよりも、他者(とりわけ政敵)の見識を問う。謙虚とは、こういう態度をいうのである。自分で「謙虚」を口にする人物が謙虚であった例はない。

 自分自身の主張については徹底的に抑える。一方、熟慮し検討を重ねた施策については、問われれば、相手が納得するまで語る。「なにを」「なんのために」「いかにして」おこなうのか――安倍・菅両氏に共通するのは、まったく逆である。疑問が解消しないから質問しているのに、徹底的にはぐらかし、自身の主張については問われなくても語り続ける。

 説明不十分であるにもかかわらず、実行するのは決断力があるのではない。法治主義に反し、人々の政治的見解を排する。程度の悪い独裁政治である。

 このような政治家が官僚制度のてっぺんに座ると、本来、効率よく仕事をこなすための官僚制度が、トップの指示命令に従って動くだけの官僚マシンになってしまう。経綸なく、組織のトップだけをめざすタイプの出世亡者は、競争相手を叩き、従わない者を排除し、上にひたすらゴマをすって上り詰める。「官僚機構において先頭に立ちうる者は自己存在を放擲したものである」(ヤスパース)の指摘は至言である。これが官僚的気風を形成する。

 優秀でないトップをいただいた官僚たちは、国民に対する公僕精神を失う。良い仕事をしようという意欲を持てば、トップに刃を向けることになるからである。マスクを配るというアイデアを提起した官僚は、安倍・菅両氏が求めているものが何かをよく知っていた。

 世間は、マスク配布を失笑で済ませたが、理屈を書けばこうなる。

 政府がマスクを配れば国民は喜ぶ、というアイデアを提出した官僚は、首相が飛びつくと考えたのであって、事実そうであった。首相も官僚も国民をこの程度だと見ているのである。政府の官僚機構はポンチ絵的に程度が低くなっている。

 世界に公約したから、オリパラを何としてでも実施したいのであれば、議会を開いて、コロナ禍であっても実施するべきオリパラの意義を、虚心坦懐に説明し、各議員の見解を問うべきであった。そこで弁証法的まとめに至らずとも、その言葉が説得力を持つならば、国民的合意が形成されたであろう。

 国民の合意形成努力は安倍・菅内閣においてはまったくない。決めたことだからやる、黙ってついて来いというパターンは、民主主義の行為ではない。

 政治というものは、ある課題について、いかにして多くの人々を組織するかというプロセスが大事であって、プロセスを無視する政治家は、選挙で選ばれたとしても政治家落第である。戦後民主主義で育った政治家の民主主義レベルが危惧される。まさしく、政治的危機である。

 政治における官僚機構の力は巨大である。政治家・官僚に官僚主義が浸透すると、彼らは「国家」(体面)を大義名分として、人々に働きかける。人々が国家の官僚扱いされる。いま、象徴天皇であって臣民はいないが、天皇に代わって、官僚機構国家の臣民(官僚)として人々が再編成されることになる。誇り高い人間としては、「NO」と言わざるを得ない。

先人の努力を食い潰す

 日本人は成功体験にとらわれているという。一般に成功体験というのは、かつて輝いたことにあるが、成功体験とは、輝いている結果ではない。正しい成功体験とは、結果を導いた奮闘努力をいうのである。

 もともと日本人は革新的ではない。革新的ならば、鎌倉幕府以来、明治維新まで700年近く不都合な封建社会が続くわけがない。めずらしくも社会的に革新力を発揮したのは明治維新からの30年間、敗戦後の30年間と括っても大きくは外れない。明治の30年の遺産を食いつぶして昭和の15年戦争で破局、敗戦後30年の遺産を食い潰しつつ今日がある。

 せっかく民主主義を手にしながら、民主主義の何たるかを考えているだろうか。考えている人々が主流ならば、安倍・菅内閣9年間の記録はない。彼らが日本の政治を前進させただろうか。コロナ騒動のように、誰もが苦労している時こそ、人々の連帯が高まらねばならないし、政治とは連帯を高める営みである。ところが、人々の気持ちはまさにバラバラだ。

 人間社会は暗黙の信頼があるからこそ成り立つ。危機は(社会的)信頼の欠如として現れる。信頼という形があるわけではない。人々の前に現れる1つひとつの具体的問題を社会的関係において解決していくダイナミックな状態である。安倍・菅政治の9年間は、あれやこれや信頼感を破壊したというしかない。

 そのような政治を許容したのは、間接的にせよメンバーたる1人ひとりである。日本人的慣習をさらに抽象化すれば、アパシーとアナーキズムではないか。アパシーは(社会的)無関心、アナーキズムは権力を否定する無政府主義ではなく、利己主義による社会否定である。

「他人の個人」を認めない人は、実は「自分の個人」もまた認めない。戦後民主主義になってからも、日本人は社会的意識が非常に欠乏していると指摘され続けてきた。これは核心的欠陥である。

 社会的頽廃は権威主義から生まれる。権威主義は社会をタテ割りするのであって、ヨコの連帯を育てない。たまたまアフガニスタンに注目が集まっている。もちろん、日本とアフガニスタンの社会的事情は全く異なるが、権威主義がはびこる社会において、国民的視点を欠いた権力闘争が起これば、寄ってたかって社会を破壊するムーブメントになる。決して他人事ではない。

 小さなコミュニティから、国に至るまで、社会的紐帯を形成するのは1人ひとりであって、怪しい政治家にお任せできない。現代の政治的危機から脱却するために、あえて、――すべての道はアフガンに通ずる――と言いたい。


◆ 奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人