論 考

熱中するのは危機と遊ぶとき

 昔々某氏は、組合役員は片手に酒杯片手にジャン牌とのたもうた。わたしとは活動理念、思想、行動のいずれも異なって、だいぶ年上であった。某氏は、アパッチと尊称(?)をもつわたしを警戒しつつ、なぜか仲良くしてくれた。

 仕事ができる人であるかどうかは他の支部の人であり詳細には知らない。現場の班長出身、小型の親分肌で、二階氏にもう少し愛嬌を加えた感じであった。

 1960年代末、わが組合はなぜか「人間疎外」に取り組んだ。その委員会委員の1人に某氏が選ばれ、私の見方は「うむ?」なのであった。およそ疎外などとは無縁に見ていたからだ。

 わたしは片手に万年筆(昔の原稿はすべて原稿用紙に書いた)、片手に酒杯で、賭け事嫌いなのでついにジャン牌は握らなかったが、煙もうもうの卓を囲んで無心に興じている人たちを見るのは嫌いではなかった。

 日ごろ仏頂面している諸氏が、アホな名言(?)を吐き出しつつチーだのポンだのとやっているのがおかしかった。

 月日が過ぎて、ニーチェ(1844~1900)の「男が熱中するのは危機と遊ぶときだ」という言葉に接して、「ふうむ!」と思った。この辺の感想は、また別の機会に書くことにしよう。

 黒川氏は、片手に法律、片手にジャン牌であったか。まさにコロナ危機に遊んだ次第で、ニーチェ流であったらしい。