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「賃金」とは何か

奥井禮喜
□ 一律ベアが機能した時代

「賃金」「給与」という言葉にも、労使対等と、それ以前の時代が反映している

 わたしが大企業に入社したのは1963年である。当時は、給料・給与・賃金という言葉が入り混じって使われていた。組合では、賃金という言葉を使うのがごく普通であったが、お給料・お給与と呼ぶ向きもあった。

 高卒男子初任給が13,800円であった。そこから税金・社会保険料・寮費・工場給食費などを差し引かれると手取りが概ね8,000円である。そこから日本育英会奨学金の返済1,000円・実家へ仕送り1,500円・月賦(新入り社員必需品=携帯ラジオ・電気ポット・ヘアドライヤー、背広)支払い2,000円程度を差し引くと残る小遣いが3,000円であって、故郷をほとんど文無しで出てきたのであるから、まことに不自由極まりない。

*あんぱん15円・コロッケ20円・チキンラーメン35円(割高感)・コーヒー60円・ショートピース50円・カケ蕎麦50円・カレーライス120円・天丼200円。

 なにしろ、わたしは高校の3年間奨学金3,000円/月をお小遣いとして自由に使っていた。いかに新入りといえども働いているのに手元自由のおカネが3,000円というので侘しいことしきりであった。

 ① 給料とは、使用人・労働者に対して雇い主が支払う報酬である。

 ② 給与とは、金品を与えることであり、官公庁(が官吏に対して)・会社(が社員に対して)が支給するものである。

 ③ 俸給とは、官公庁(広くは会社・銀行)が公務員(勤労者)に対して支給する給与である。

 これらに共通するのは、雇い主側が与えるという印象が強い。与えるということは、相手側は、ありがたくいただくという次第である。これでは払う側とそれを受ける側の「対等」が感じられない。だから、生意気盛りのわたしたち青年労働者は賃金という言葉を意識して使った。

 *salaryはoffice workerに対する俸給・給料である。wageはlaborに対する賃金・労賃・給料である。feeは専門職への報酬・謝礼である。サラリーマンは日本的造語。

賃金は要求するものだという常識が定着するのは敗戦後である

 春闘が開始したのは1955年の8単産共闘からである。これが労働運動の起爆剤となった。賃金は相手が出すものを黙っていただくのではなく、対等な関係において要求するものだという意識が大きく高揚した。

 *太田薫総評副議長が主導、炭労・私鉄総連・合化労連・紙パ労連・電産・電機労連・全国金属・化学同盟。1956年に総評+中立労連で春闘共闘委員会を構成。

 昨今からすればぴんと来ないかもしれない。明治時代に資本主義が台頭して、賃金労働者が登場していたが、長年の封建制度下において、人々は「働かせていただく」のであり、したがって「お給金をいただく」ものだという意識に染まっていた。ようやく敗戦後にデモクラシーの世の中になったとはいうものの、労働者の大勢は相変わらず「会社からいただく」意識だった。

 ほどなく「春といえば春闘」という気風が高まった。もちろんその最大の原因は飢餓賃金といった労働者全体の低賃金である。1956年春闘はずばり「食える賃金」をよこせというスローガンで、菜っ葉服の労働者が自信に溢れて拳を突き上げた。労使対等を理解したからというよりも、飢餓賃金が結果的に労使対等への道を拓いたというべきかもしれない。

 しかしながら前述のような意識が色濃く残っている。たまたまストライキをやろうなんてことになると、「会社といえば親も同然、従業員といえば子も同然」において、「子供が親に弓を引くのか」というような真面目で頓珍漢な意見が出るのも不思議ではなかった。人を支配している社会的習慣というものは、心して対処しないと容易には変えられない。(企業一家主義の問題は大きかった)

飢餓からヨーロッパ並みへのスローガン変更が一律ベア路線の先行きを示唆していた

 ここでC.アージリスの欲求理論に当てはめて考えてみよう。

 欲求理論は、低いほうから「生存欲求→社会的欲求→成長欲求」の3本立てである。生存欲求は生物としての生存が脅かされるほど膨れ上がる。飢餓(という言葉に世間の人々が違和感を持たない)賃金の状態はまさにそれである。最近は「腹が減っては戦ができぬ」というような慣用句を全く聞かない。ダイエットやエアロビクスでスリムな身体になりたいという願望が社会的に目立つのは70年代後半であった。

 たまたまわたしが社会人になった63年春闘スローガンは「ヨーロッパ並み賃金」をめざそうというもので、これは60年代末まで全体的な気風であった。すなわち敗戦後からの飢餓賃金時代を概ね脱出したのである。飢餓賃金からヨーロッパ並みへのスローガンの切り替えは、いま考えても、なかなか事態をよく観察していたのであったと思われる。(ここまでは、まあ、よかったが——)

 そこでアージリスに倣えば、日本の労働者がヨーロッパの労働者と賃金で並ぼうというのは社会的欲求段階(横並び意識)である。これをいま振り返ってみれば、1つの重要な問題に気づく。つまり、生存欲求は生物の個体的不可欠の欲求であるから絶対度が高いが、社会的欲求はそれとはだいぶ違う。隣家の暮らしぶりと自家のそれを比べて、「まあ、こんなものか」と納得する時代に入ったのである。

 すなわち、ヨーロッパ並み賃金をめざす時代に入ったことは明らかに労働者内部で、かつての燃え上がるような賃上げ闘争への熱が下がりつつあったという事実である。(飢餓賃金時代に青年であった世代の執行部は、昔と比較するから、低賃金で突き上げる青年労働者をなだめるような面があった。組合員意識にズレが出ていた。)

 しかし、活動家がこの問題を切実に直視していた形跡はない。なぜかといえば——労働者をマスでみれば、依然として飢餓賃金スタンスで文句をぶつけるし、活動家は従来路線踏襲型でせっせと賃上げ闘争の盛り上げに熱を上げるだけであった。これは運動における「慣性」そのものである。先を読んで戦略・戦術化することが大事だが、人間は慣性に支配されているから容易でない。

*「先を読む」というのは、小さな変化であってもそこにどんな意味があるのかを読み取ることである。いつの時代にも先読みできる活動家は少ないし、たまさか誰かが気づいても、全体が共有するのはさらに難しい。

 1970年代半ばくらいになると、春闘の闘い方を巡って不満が集中した。要求満額獲得すれば文句の出番はないから、獲得額に対する不満(賃金の高さ)だと考えられなくもないが、賃金獲得額自体よりも闘い方に対する不満が続出したのは、実は獲得額に対する関心が以前よりも相対的に低下していたのである。金額よりも闘い方に不満が集中すること自体が大きな変化だった。

 1950年代には、賃上げ交渉に失敗して、執行部が「腹を切った」という話がいずこの組合でも珍しくなかった。闘い方とは目的(賃上げ)に対する戦略・戦術であるから、それが不満であれば、やり直さねばならない。にもかかわらず闘い方の不満は派手に出るが、執行部は腹を切らなかったし、それ以上の賃上げをしなくても、少し時間が過ぎれば、労働者の不満は収まった。

 さらに、労働者といってもホワイトとブルーの別がある。役職手前もいれば、三下もいる。男女の別もあれば年齢幅もある。1人ひとりの働く立場は大きく括れば組合員だが、個人的生活事情の違いは小さくない。

 飢餓賃金時代には一律賃上げで簡単に1つにまとまるが、ヨーロッパ並み時代になると個人的事情の違いの影響が次第に大きくなった。だから各組合が配分の工夫に頭を捻った。配分に頭を捻ったのは上等だが、もっとも大事なこと、賃金水準が上がっていくと、一律ベア方式がどうなるかについて考えた活動家は極めて少なかった。(これは全体戦略の問題である)

 1970年代後半、わたしは春闘を2つの問題意識をもって見つめていた。1つは、賃金闘争に対する労働者の関心がますます希薄になるだろうということ。2つは、賃金引き上げだけが労働者・組合の活動なのかということである。わたしが先見的であったと言いたいのではない。このような懐疑心が組合活動の流れにおいて芽生えにくかったのである。(組合には企画・開発部門がない)

「賃金闘争=組合活動」論の限界

大幅賃上げ路線が頭を打ったが、戦略が構想されなかった

 1972年にはじめてベア相場が10,000円の大台に乗った。これは一時的であるが、労働者意識を高揚させた。さらに74年春闘は、賃上げ率32.9%、賃上げ額30,000円に接近した。前年の石油ショックで物価が暴騰した。この賃上げの本質は、71年ニクソン声明による金本位制の終焉と、それに伴う石油価格引き上げによる世界的価格調整の日本的事情の1つであった。

 *石油ショックを世界的価格調整だと見抜いたエコノミストは少なかった。政財界人はてんやわんやであった。

 ところが当時の労働界幹部はそのようには考えなかった。こんな賃上げを毎年継続すれば日本が壊れると危惧したのである。要するに、大幅賃上げを常に追い求めてきたのであって、それ以上でもそれ以下でもなかったという不勉強が露呈した。実際、名目だけで生活は少しも改善されなかった。

 何のために賃上げするのかといえば、労働者・国民生活をよりよいものにするためであり、生活を安定させることである。そこで「社会的整合性」論なるものが登場した。いわく、賃上げは実質生活を維持・向上させるということに軸足を置いて、さらに国民生活を安定・向上させる社会的労働運動を再構築しようというのであった。

 この考え方は今日考えても妥当であろう。その意味では74春闘大幅賃上げによって新たな気づきがあったともいえるが、いかんせん、言葉による理屈的正当性を構えてみたものの、労働運動全体として、それを具体的実践に移すような「大改革」に着手できなかった。(賃上げ抑制論と批判されたのも仕方がない)

 その理屈の受け皿となるのは結局のところ労働戦線統一であった。しかし、こちらはとにかく大同団結することで手一杯であった。もし、当時「社会的整合性」論をやがて結成する連合に結実させることができていれば、後々の労働運動は大きく違った方向へ進んでいたであろう。(極めて残念無念だ)

 すなわち、単位組合においては従来同様の賃上げ主体の活動を継続、社会的整合性なるものを追求する活動は新たに結成されるナショナルセンターにお任せという理屈だけである。仮に大同団結しても、ナショナルセンターが即刻「大改革」できるわけでもない。なによりも、「大改革」など大幹部同士の話し合いの対象にもなっていない。所詮、組織再編論とその実践に終わってしまった。

2つの問題提起とは、春闘の限界論と組合新事業開発であった

 わたしが提起したことを再現する。1つは、78年に組合の理論文化誌に『倒産労働組合』と題するSF小説を掲載した。わたしの専門部会の仲間がアイデアを出し合って創作したものだ。21世紀に入った時点の組合員と組合活動について想像して小説化した。ざっと20,000字の、いま読んでも結構面白い。胆は賃金だけの運動では組合活動は確実に行き詰るという予測である。

 これが79年に入り、『週刊ポスト』500号のトップに紹介されて、電車内広告などで派手に宣伝されたものだから、組合事務所の電話は鳴りっぱなし、女性書記さんたちが悲鳴を上げた。寄せられた感想は、組合役員・人事関係者からで「よくぞ言ってくれた」というものが圧倒した。わたしたちが抱いた危機感を共有してもらえたことに安堵したけれども、さらなる危機感をも覚えた。

 2つは、81年に『労働組合が倒産する』(総合労働研究所)を上梓した。官僚化している組合役員事情を指摘し、賃金闘争至上主義で顧みない組合路線を批判し、組合的新商品開発を提唱した。売れない組合本であるが13刷を重ねて数万部売れた。これもあって、やがてユニオン・アイデンティティの運動がかなり巻き起こったけれども、本質的な「存在理由」についての議論が深まることはなく、その後のバブル経済に飲み込まれてしまった。

 一方、頼みの綱の春闘は80年代後半からはめっきりと影響力を失っていく。90年から連合春闘が出発するのであるが、2002年までは、いわゆる「春闘10連敗」時代となった。それは、組合機関が打ち出す方向性が組合員の強い支持を受けていないという事実を示していた。誰が組合の主人公なのかを本気で考えなかったというしかない。

 80年代と90年代を眺めると、組合活動の著しい後退が認められる。わたしは賃上げ活動の成果がなかったことを問題にする気はない。90年代に入ってバブル崩壊するや組合が雇用問題においても決定的に苦境に立たされたのは事実であって、単に手柄があったとか、なかったというような論議には与しない。むしろ組合活動自体がきちんと構築されなかったことを問題視する。

 この間、本来、1人ひとりの組合員を組織することによって力を持つ組合が組合機関と組合員との紐帯を極めて希薄化してしまったことが最大の汚点である。なぜか、それは勢いがあった時代の感覚を検証することなく踏襲して、まさに自縄自縛の罠に嵌ったというべきである。

賃金論(組織論もであるが)を軽視したために労使対等が大幅に逆流した

 80年代の賃金闘争の特徴は、運動論からみれば労働戦線統一への過程で、一律ベア闘争の最大の力である統一的闘争がきちんと構成されなかった。要するに、リーダー、あるいは春闘の核が不在であった。もともと春闘の先行組合は後に続く組合の踏み台になりやすく、統一闘争を掲げて「連帯」を標榜しつつも、本音はわが組織が他組織よりも少しでも上を行きたいのである。1例を上げれば60年代後半から常に鉄鋼が先行・相場の下支えをやったが、組合員に妥結結果が不評であれば、先行した鉄鋼が全体の相場を下げたとして悪口雑言するような連中が少なくなかった。

 産別力が単組力の総和であり、単組力が組合員力の総和であることを本気で考えなかった大幹部・幹部の姿勢を指摘しておかざるをえない。労働戦線統一をめざすという大きな構えをしていながら、大幹部・幹部の皆さんが、このもっとも原則的理論を押さえていなかったことはまことに遺憾である。

 賃上げにおける組合員力とは何か? 飢餓賃金時代には数字を掲げれば大方の組合員が付いてきた。ヨーロッパ並み、さらに70年代後半になると単純にベア数字を掲げて大幅賃上げというだけでは組合員を組織できない。70年代末までは、真っ当な組合は賃金要求の正当性について組合員段階まで教育宣伝活動を展開していたのであるが、80年代に入るとその活動に手抜きが増えた。

 敗戦後から開始した賃上げ闘争を軌道に乗せるために苦労した先輩が去り、先輩の苦労を実感していた世代が去り、「やりたかないが、頼まれたから組合役員になった」世代が活動の中心に位置するようになった。彼らは、そもそも賃金論をきちんと勉強していない(と思われる)。労使共に過去から積み上げてきた慣習的な交渉をしてお茶を濁すような傾向になった(と思われる)。

 賃金交渉の核心は、いわば「出せ」「出せない」の綱引きである

 組合は勉強しなければ「儲からなければ払えない」という単純な理屈の壁に立ち向かえない。敗戦直後から賃金闘争を起こしてきた先輩たちは、高学歴のインテリ人事部をいかに説得するかで苦心惨憺した。組合交渉団が徹夜で説得論拠を準備するなど涙ぐましい努力をするのは当たり前であった。

 「儲からなければ払えない」という理屈は、会社経営が前提であるとする労使協議の土俵である。ここにおいて賃金は全面的にコストそのものである。賃金が経営上コストであることは事実である。そして、この考え方には戦前からの「働かせてやる」という思想が顔を出している面も見落としたくない。

 組合が賃金闘争を通して実質的にコスト論や「働かせてやる」論を抑え込み、以て労使対等の実を上げてきたのは1970年代までであった。この間、組合員段階において、労働者にとって賃金は生きるための糧であり、労働力の再生産費である。だから――儲かったら払うが、儲からなかったら払わない――という性質のものではないという気風が形成された。

 そもそも経営活動を直接担っているのは労働者であり、経営成果なるものは労働者が働くことによって作り出している。経営は、労働者の働きの舵取り、あるいは1つひとつの働き方を最高度にまとめあげる仕事である。いかに労働者が献身的に働いていても、経営が拙ければ無駄働きになる。

 だから経営側が「今年は業績が悪くて——」と賃上げできない理由を掲げれば、かつての労働者は「こちとら1年間低賃金で貢献してきたんだ」と堂々たる反論をしたのである。このように一線を画しておかないと、経営責任が労働者1人ひとりに押し付けられてしまう。そうであるならば、労働者は経営者である。労働者に経営責任を押し付ける経営者とはいったい何なのか?

 さて、80年代に、丁寧に賃金論を組合員段階まで展開していた組合は決定的に少ないと思われる。たとえば70年代の電機労連は賃金政策として、月例12か月+年間臨給5か月で年間17カ月とした。基本は月例賃金重視であり、収益の増減を単純に年間臨給で扱うという考え方は取らなかった。つまり、5か月もまた重たく考えたのである。

 ところがバブル経済を背景に6か月、6.5カ月と年間臨給で取れるだけ取ろうという方向へ走った。一方、組合員段階での勉強会はほとんどない。となれば、組合員は「儲かるから賃金が上がる」と単純に考える。90年代にバブル崩壊後の不況下、連合春闘時代になったが、春闘10連敗などといわれる事態になれば、組合員は「儲からないから上がらない(下がる)」と考える。

 ここにおいて、労働者が全面的に「賃金コスト」論の思想に逆戻りしてしまったといっても過言ではあるまい。たとえば、いま「残業で稼ぐ」という気風である。1970年代までの労働者は「残業しなければ食えない」から「賃上げせよ」とは言ったが、生活費の不足分を「残業すれば稼げる」というような考え方や発言は主流ではなかった。

 働き方改革の流れにおいて、残業を制限して「生産性が上がらなければ減収になる」(から労働者が困る)という主張がなされる。ここには2つのペテン的論理が隠れている。1つは、残業は全面的に労働者が生活費稼ぎのためにやっているという決め付けである。2つは、残業制限しても生産性と無関係なのであれば、時間ではなく成果で賃金を支払うという論理自体が成り立たない。

 労働者は低賃金だから生活残業するのであり、経営側はそれに便乗して過剰労働をさせていることには知らんぷりである。このような論調が世間に堂々と幅を利かせていること自体が、賃上げ一本槍でやってきた組合活動の本質的弱点を意味していると考えなければならない。すなわち、組合員が必要な生活費を稼ぐために生活残業するということ自体が、組織的賃上げが機能していないのだという事実である。(団体的ではなく個人的問題解決になっている)

□労使対等(雇用関係)の基盤としての賃金

日本の賃金は低い、にもかかわらず—–

 世界第3位の経済大国というが、わが国労働者の賃金はすでに欧米各国を十分に下回っている。時間当たり賃金(購買力平価2015 JILPT)によると、日本を100とした場合、アメリカ126、イギリス114、ドイツ176、フランス141である。かつての「ヨーロッパ並みの賃金を」期待した時代に戻っているわけだ。

 *労働費用でも、日本を100とすると、アメリカ160、イギリス140、ドイツ195、フランス185である。

 上記は、日本の労働者は欧米に比較して安く使われていることを示している。一方、労働者は賃金について、安いけれども、何とかやっていけるとか、まあまあ、そこそこ、というような反応を示している。「蟹は甲羅に合わせて穴を掘る」というが、生活を前提として妥当な賃金なのか、賃金によって生活しているのか。——ここのところをよくよく検討する必要がある。

 おそらく多くの労働者が、初任給が妥当であるか否かなどと検討して納得づくで入社してはいないだろう。市民社会の対等を前提とした契約であれば、契約書を入念に検討して契約するのが当然だが、採用面接時に、「無茶な残業はありませんね」とか、「有給休暇はしっかり取得できますか」などと質問しようものなら、大方は不採用であろう。

 つまり労働者個人としては不対等的関係においてやっとこさ入社させてもらうのであるから、後は、甲羅に合わせて穴を掘るだけであろう。それは現実に労働時間において著しい歪を発生している。

 そこで、賃金と時間――すなわち単位時間当たり賃金が妥当なものかどうかについて、組合は組合員挙って研究するように工夫するべきである。たとえば、各人の生活ぶりを組合員同士が話し合える場を作るのはいかがであろうか。

何のためにはたらくのか、働くために働くのではなかろう

 賃上げに昔ほどの関心がなくても、雇用関係の柱としての賃金契約の重みが薄れたわけではない。賃上げに対する関心が薄れて賃金契約の重みについて無関心になってしまったのでは労使対等どころの話ではなくなってしまう。くどいようだが、「働かせていただく」のではなく、労働者が主体的に「働く」という意識を確立する必要がある。

 賃金を獲得するために働くのであるが、その前に、働く時間というものは本来、労働者個人が自分のために好きなように活用できる時間である。仕事によって賃金の違いがあるけれども、各個人の1時間というものは賃金のように格差をつけられない。Aくんの1時間とBくんの1時間の価値は本来等しいと置くしかない。

 もし労働力に対して賃金を支払うという考え方ではなく、労働者個人が失う(提供する)時間と賃金を交換するという理屈を構えれば、平等な人間なのであるから各人の時間の価値(=人生)に格差はつけられない。各人の人生にとってはそれが正解の人生である。もし、それを否定するのであれば人生には正解があることになって、「100人・100様の人生」という常識が覆る。

 話が非常に難しくなるので、この程度にするが、本来、各人が生きたいように生きるのが人生という地点から考えると、賃金決定の原点は、少なくとも労働者個人が自分の労働力の提供に関しては、自分の見解を確保するのが筋道である。生きるために働かなければならないというけれども、現実は、また明日も働かなくてはいけないから今日も働くということになってはいないだろうか。

 生きるために働くという構え方は妥当である。「なぜ生きるのか」を問うのもこの際は横へ置こう。気がつけば生きていたのであるから。しかし、「何のために生きようか」とか、「いかに生きるべきか」という問いかけは繰り返しやらねばならない。それらの問いかけを看過したり、回答を仕事であると規定してしまえば人生の目的は仕事でしかない。

 いわば賃金に関する「無関心」、「問題意識の欠落」は、「生活の糧」論への懐疑なき埋没であり、「何のために・いかに」生きようかという思索をするところから賃金闘争の再建、以て組合運動の再生に立ち向かえると思うのである。

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奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人