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「出講掲示」と「自主休講」

奥井禮喜

―――作家・広津和郎のエピソード より―――

見上げた学生

 どんな話が飛び出すか――毎朝、新聞を読むとき、やや誇張して言えば期待が高まるのは「読者の声」である。傾向としては、報道されていることをオウム返しにしたような声が多いから、それはいただけないのであって、何かめぼしいものはないか、宝探しみたいでもある。書かれた内容の巧拙はどうでもよろしい。自分の頭の中に眠っている何かを刺激してくれるならば嬉しい。

 ――東京新聞(4/24)に、佐藤妃夏さん(20歳女子大学生)が「学ぶ権利」について投稿された。芸術学部3年生である。目下の事情でオンライン授業になった。学部は実習が多く、オンラインでは不十分である。大学の対応について不満が高まっていて、もうちょっと何とかせよという署名運動が始まったので、佐藤さんも署名した。SNSでは、かなり過激な意見も飛び交っているらしい。佐藤さんは考えた。要するに「学ぶ権利」を主張しているのであるが、ふだんは「自主休講」したり、授業中にスマホに熱中したり、居眠りしている。これでは「学ぶ権利」を主張する資格があるだろうか――(要旨)

 このような投稿を読めば、先生方は大いに喜ばれるであろう。つとに、「大学は学生の遊園地」であって、しかも、先生の評価は伝授する内容によるのではなく、学生さまによる人気投票で決定される。先生が、「私語するな!」「ちゃんと勉強せんか!」などと叱咤激励すれば、親心と思ってくれるどころか、人気下降に拍車がかかるわけで、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んでいる。

 先生方と学生のすれ違いには、古今東西南北、それなりの歴史がある。たとえばマックス・ウェーバー先生(1864~1920)に、『職業としての学問』(1919)という有名な講演がある。「教師として優れているかどうかは、学生諸君からかたじけのうする出席によって決まる」、「本来、学問的訓練はアリストクラティック(貴族的)な仕事であり、学問上の諸問題を未訓練の人々に理解させ、問題を自ら考えていくように解説するのは難しい」。「大学は研究並びに教授という2つの課題を等しく尊重すべきである」、「とはいえ、これら2つの才能を兼ね備えた学者の出現はまったくの偶然に待つほかはない」と語っている。

 教えることは可能であるが、学生が自分からせっせと学ぶかどうかは保障の限りではない。「学ぶために高い授業料を投じているのだから、理解できるように教えろ」というのも当然の理屈であるが、頭があれば誰でも学ぶという具合にいかないのが現実であり、遺憾千万である。

自主休講

 学生の「自主休講」という言葉を見て、広津和郎さん(1891~1968)の『同時代の作家たち』の中にある「島村抱月」(1871~1918)の挿話を思い浮かべた。広津さんは、1949年8月7日に発生した東北本線松川駅近くでの列車転覆事件裁判で、検察、裁判所の矛盾を追及して、ついに1963年最高裁で全員無罪を勝ち取った救援活動の中心人物である。これは、日本の裁判史上で特筆大書すべきものである。

 小説家は嘘を書いて、ものごとの真実を描くのであるが、松川事件裁判においては、事実が真実か否かをとことん思索研究したのであって、いわば小説家という生業から飛翔して、隠れている真実を引っぱり出して、松川事件裁判という現実の物語を作り上げた。個人的作家業から、アンガージュマン(意志的実践的社会参加)して、作家人生を完結させたのでもある。いま、広津さんを知る人は少なくなったと思うので、小説家の殻を破った若き日の広津さんがどんな学びをしていたか、少し紹介してみよう。

 広津さんが早稲田大学の学生であったのは1909年から13年である。当時、島村抱月の美学の講義を聞いた。抱月は、1902年から04年、イギリスのオックスフォード大学とドイツのベルリン大学で留学生として学び、帰国後、早稲田大学で教鞭をとっていた。06年には坪内逍遥(1859~1935)と文芸協会を立ち上げた。演劇、文学、美術などの進歩をめざした研究団体であって、会頭は大隈重信(1838~1922)である。

 いわば、一流中の一流の教授が美学を語るのである。ところが広津さんは、「美学の講義はお座なり、月並みで、独創のあるものとは思えなかった」という。

 抱月は教授としては大変怠け者であったらしい。大学教授は講義を休む場合、事前に「休講掲示」を貼り出すが、抱月の場合は逆で、休講が常態で、「出講掲示」が貼り出された。たまたま出講掲示が出たので教室で待っているのだが、先生が現れない。学生が抱月宅へお迎えに出かけた。感心な学生である。ところが学生は手ぶらで帰ってきた。いわく、「先生は途中まで出かけてきたが、鶏を小屋に入れ忘れたのを思い出して引き返した。再び出かけるのが嫌になったので、今日は勘弁してくれ」。学生が文句を言わないのも不思議である。

 広津さんの父親は作家の広津柳浪(1861~1928)である。硯友社同人として明治文壇を引っ張った1人であり、広津さん自身も早稲田に入った当時すでに小説を書き始めていた。そんな広津さんが、なぜ退屈な抱月の講義に出席したのかというと、抱月の人間味に興味を持った。いわく、抱月の「生活の重みに耐えられない」ような話しぶり、「消極的な懶惰振りに、何となく不思議な魅力を覚えた。美学の講義などどうでもよかった。ただ、氏の風貌に接し、氏から生きるということは何と憂鬱な重荷であるかという溜息を聞くだけで氏に惹きつけられた」と記す。憂鬱な溜息に惹かれたのである!

 余計なことを付け加えれば、少なくとも広津さんは先生が黒板に書いたことをノートに写す学生ではなかった。自分なりに美学について考えており、それと抱月の講義を比較考証していたのであろう。また、学問知識を得るために学んでいるだけではなく、人生をいかに生きるべきかというテーマが常に念頭にあったのだと思われる。これは広津さんだけではなく、当時の学生の気風である。たとえば寮生活などにおいて、おおいに人生観を語り合った。また、貝塚茂樹(1904~1987)は、明治後半から大正時代の学生は、「カントを理解することはカントを超越することだ」という気風を持っていたと語っている。人生における哲学の意義を理解していたらしい。

惻隠の情

 抱月は09年から新劇運動を引っ張る。13年、広津さんが早稲田を卒業する年に、抱月は芸術座を起こすが、松井須磨子(1886~1919)との恋愛でスキャンダルになる。その時、広津さんの抱月論は次のようなものであった。

 「(抱月は)苦学中に細君の父親に助けられ、養子となって島村家を継ぎ、窒息するような境遇を忍耐して自己を潜ませていた。さっさと、そうした義理と人情など振り切ってしまえばいいのに、それができない」、「意気地なしには違いないが、1つの生活から1つの生活へ飛躍したり一転したりできるのが、必ずしも勇者とは言えない」、「後悔、逡巡、悩みなくして、飛び移ることは複雑な感情の持主にはなかなかできることではない」。そして、「その些末なことに苦悶する苦悶の仕方に人間生活の厚みや深みが出る。それは人々に見逃されがちであるが、仔細に考えてみると、そこに人間生存の謎の深さが隠れているわけだ」と、広津さんは意味づける。

 広津さんの人間を見つめる目は、まさに――寄り添う――という言葉がふさわしい。「(抱月は)エリートとして早稲田文科の科長になっても、納まって反り返っていられる満足感などおよそ感じられる人ではなかった。いつもその空しさにじっと耐えていたのである」。

 それだけならば、まあ、単に個人的好き嫌いでもあるが、広津さんは、さらに「その空しさとは何であるか。二葉亭四迷(1864~1909)も『浮雲』で明治の出世主義の空しさに反発している。この日本の興隆期に、興隆の仕方の空しさを感ずる空虚感が『まこと』を求める人たちの胸に育んでいたのではないか」と思索を展開する。

 「天下のバチルス島村抱月に痛棒を加えよ」というような囂々たる社会的非難に対して、抱月を自分の心で抱えた広津さんの寄り添う視線は、他者の痛みをわが痛みとする惻隠の情そのものである。それだけではなく、抱月という人物が、外発的開化の中で生きることに苦しみ悶えていることを見抜いた。それは「島村抱月は日本のこの時代におけるもっとも複雑なもののシンボルである」という、広津さんには珍しい決め台詞に現れている。

行き詰りと復元力

 明治から大正にかけて自由主義の流れがあった。大正デモクラシーと呼ぶが、現実のそれは決して華やかなものではなく、社会を覆う権力の抑圧と無知蒙昧の気風の中で、理屈と現実の大きな陥穽に、自由を求めれば求めるほど行き詰まりを感じさせられたであろう。

 抱月的虚無感に親近感を抱きつつ広津さんは「抱月的なるもの」と静かに対峙しつつ社会の重みに耐え抜いた。豪雪に抑えつけられた竹藪が、やがて豪快な音を立てて頭の雪をはねのけるような生き方であった。

 芥川龍之介(1892~1927)は、「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」という言葉を残して彼方へ旅立ったが、彼もまた、抱月と似通った環境・意識にあった。広津さんは芥川の死について、「あまりに正直(潔癖)すぎる彼には、やっぱり生きてはいられなかったのであろう」と記した。人生は重たい。「重荷を――重荷と思い始めたらやりきれない。重荷なんて考えずに背負っていくより仕方がない」。虚無に惹きつけられつつ、いや、味わいつつというべきか、広津さんは行き詰まっても考え方の復元力をつねに確保し、雪をはねのけるのを虎視眈々と狙っているような人であった。

 開高健(1930~1989)との対談で、広津さんは自分を「非常な怠け者で、たまたま何か衝動に駆られると、パッと行く、何かに凝るんだ」と語っている。いわば、――圧力が強かろうと、面白くなかろうと、所詮虚無たる人生においてはどうってことはない。強い圧力には耐えてやろう、面白くなければ隙を見つけて面白くしてやろう。失うものは何もないじゃないか! ――わたしはこのように広津さんの生き方を認識している。

 広津さんの精神の真骨頂は、1938年、軍国主義が疾風怒濤であったときの講演「散文精神について」に語られている。

 ――それはどんな事があってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通していく精神――

 ――この国の薄暗さを見て、直ぐ悲観したり滅入ったりする精神であってはならない。そんな無暗に音を上げる精神であってはならない。――

 当時とは異なっているが、目下の日本(世界)も似ていると言えば似ている。女子大学生の声から、少しは元気の足しになるかと考えて一文を草した。ついでながら、マックス・ウエーバーも島村抱月も、100年前のスペイン風邪で肺炎を患って亡くなった。広津さんも、スペイン風邪で40度以上の発熱に見舞われ、ちょうど『中央公論』の原稿締め切りで、間に合いそうにないのでその旨を知らせると、責任者の滝田樗蔭(1882~1925)から「流感は本社の責任にあらず」という厳しい電報が届いた。広津さんは肺炎を起こし、吐血しながら8日間冥界をさまよったが奇跡的に回復したというのである。復元力である。


奥井禮喜
有限会社ライフビジョン代表取締役 経営労働評論家、OnLineJournalライフビジョン発行人